第135話 戻れなかった人の線
帝都の異変から十二日目の夕方。ミアたちが歌の記録を調べていた頃、エスペルたちは魂術研究者を訪ね、召喚遺跡へ着いた。
床には、召喚陣に近づきすぎないための白線が引かれていた。エスペルは、その手前で足を止めた。
「ここから先に行けば、帰れるのか?」
「先へ行けば、帰れなくなることもある」
答えた男の左目は、布で覆われていた。
イリスが一歩進み、頭を下げる。
「トウマ先生」
男は彼女を見てから、持ってきた機材へ視線を移した。
「実験を止めて退避するための機材もあるか」
「はい。実験に使うものとは別に、用意しました」
その返事で、白線の外側にある研究用の卓へ案内された。
東方ヤシノ出身の魂術研究者トウマ・カガリは、いまは大陸内の召喚遺跡を管理していた。
海を渡る必要はなかったが、最後の道は荷車を降りて歩かなければならなかった。
ノエルが水袋を置き、崩れた壁から離れた場所を確かめる。
「ここを退避場所にします」
「それでいい」
トウマは実験台に紙を広げた。召喚された場所と帰還先の位置を記録する図で、二つの記入欄があった。
『呼ばれた場所』と『戻る先』。
エスペルは戻る先の空欄へ筆を伸ばしかけた。故郷の町の名なら、書ける。最初の一画を置く前に、筆先が止まった。
「思い出せば、埋まる?」
トウマは、布に覆われた自分の左目へ触れた。
「私は、そう考えた。強く覚えていれば、座標になると」
「先生自身が、帰ろうとしたのか?」
「違う。私が帰そうとした人だ。私は目を、相手は魂を傷つけた」
エスペルの視線が、トウマの左目に止まった。
「……その目、今も痛むのか?」
「今は、痛まない」
エスペルはそれ以上、傷のことを尋ねなかった。
イリスは視線を落とした。封印された研究の記録を、今は、その失敗で傷ついた本人から聞いていた。
トウマは記録帳を開いた。最初の何頁かは綺麗だった。途中から、字が大きく傾いている。
「景色は似ていても、時が違えば同じ場所ではない。帰りたい気持ちと、安全に帰れる経路は、別に調べるものだ」
エスペルは筆を戻した。
「向こうで、俺、まだ行方不明なのかな」
トウマは召喚の日付を確かめた。
「こちらの経過は分かる。向こうで何日過ぎたかは、まだ測れていない」
机へ置いたエスペルの手が、動かなくなった。
「分からないのは、分かった。でも、帰りたい」
トウマは空欄の脇に『未測定』と書いた。
エスペルは床の白線から離れる方へ椅子を引いた。
トウマが、わずかに眉を動かす。
「待つのか」
「座って聞く。立ってると、足が出そうだから」
冗談のつもりだった。思ったほど軽い声にはならなかった。
イリスが隣へ座り、研究帳の最初の頁を開いた。
「実験では、どこまで確かめられて、どこで相手を傷つけたのか。順に教えてください」
トウマは長く黙った後、途中の頁を折り返した。
イリスがその頁の見出しを、自分の帳面へ写した。
◇◇◇
夕食は、三人が運んだ干し肉と、現地の固い芋を煮たものだった。
トウマは研究台で食べようとしたが、ノエルが椀を渡さず、椅子を指した。
「こぼすと、記録が読めなくなります」
もっともな理由だったので、男は座った。
エスペルは芋を崩した。真ん中だけ、匙が止まる。
「次は、小さく切る。これ、まだ固い」
ノエルが頷き、固い芋を鍋へ戻した。木杓子で小さく割り、もう少し煮る。
エスペルは椀を置き、トウマを見た。
「俺が帰る話のほかに、もう一つ、相談したいことがある。皇帝を助けたいんだ」
エスペルは、シィルヴィアが死の直前に自分を固定したことを話した。
命はつながっている。けれど、固定されたままでは傷を治せず、タクミの料理も食べてもらえない。
陛下へ魔力を送る経路は止まらず、届かなかった魔力が流路に溜まっていることも伝えた。
「魔力が入ってくる道を外したい。でも、陛下まで傷つけたら意味がない」
イリスが、身体の状態と魔力の流入を記した観測記録を開いた。
「経路を切り離すとき、陛下の身体と魂の結びつきにも影響が出るのか。先生に調べていただきたいのは、そこです」
トウマは匙を置き、記録を読み始めた。
誰も先を促さなかった。ノエルが鍋をかき混ぜる音だけがした。
やがて、トウマは身体の状態を記した頁を指で押さえた。
「この記録を見る限り、魂は身体と結びついている。まず、その結びつきを守らなければならない」
次に、魔力の流入を記した頁へ栞を挟んだ。
「外すべき経路と、残すべき結びつきが、術式の中でどう分かれているかを調べよう。安全に切り離せるかは、それを確かめてからだ」
イリスは新しい紙に『皇帝救命』と書き、確認する内容を記した。
その隣には、エスペルの帰還先を記す紙があった。『戻る先』は、まだ空欄だった。
エスペルは、二枚の紙を見比べた。
「陛下を助けたい。でも、俺が帰る話も、置いていきたくない」
「二つは、別々に調べよう。君の帰還も、進める」
トウマの返事を聞いてから、イリスは元の図に『エスペルの帰還』と書き添えた。
二枚の紙は、並べたままにした。
ノエルが、煮直した芋をエスペルの椀へ戻した。今度は、匙で押すと崩れる。
エスペルは一口分を冷まして口へ運んだ。
それから筆を取り、『戻る先』の空欄の横へ、故郷の名を小さく書き添えた。
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