第134話 祈りの後のひとくち
ミアが歌い始めると、ユリウスは二行目で筆を止めた。
聖堂で歌われる、古い祈りの旋律だった。
けれど、聖堂に残る詞とは違う。
「もう一度、お願いしても?」
ミアは歌わず、イレーネの顔を見た。
「同じところ、何回も?」
昨日から、何度も同じことを尋ねられていた。
覚えているか。間違いないか。ほかにはないか。
イレーネが卓上の記録を伏せた。
「今日は、いったん終わりにしましょう」
ユリウスも筆を置いた。
「すみません。聞かせてくれて、ありがとう」
ミアは膝の上の手をほどいた。
◇ ◇ ◇
その後、ミアとイレーネは台所の隣の小部屋へ移った。
ルッツが温めた乳を運んでくる。ガレスの鍋では、昼に余った穀物が柔らかく煮えていた。
ミアは乳を少しずつ飲んだ。
「お母さん、最後まで歌えない日もあった」
「疲れていらしたのですか」
「眠っちゃうから。私より先に」
イレーネの口元が、わずかに緩んだ。
ミアも、ほんの少し笑う。
「その時は、私が歌った」
ルッツが小皿を置いた。
煮た穀物に乳を足し、蜜を細く垂らしたものだった。匙を入れると、とろりとした乳の下から、麦の粒が顔を出す。
「冷めないうちに」
ミアは一口食べてから、思い出した詞をぽつりと口にした。
帰る場所を示す古い祈りの後に、母がつけ足していた言葉。
『手を休めて。次はあなたの分を』
歌い終えて、ミアは匙を取った。蜜が薄いところから掬い、もう一口だけ、甘い方も食べる。
イレーネは膝の上に手を置いたまま、その小さな口元を見ていた。
ミアが食べ終わった後で、母が加えた詞を記録してよいか尋ねた。誰から聞いたかも、一緒に残したいと伝える。
「私の名前も書くの?」
「あなたが残してよいと思う名前で」
「ミアでいい」
◇ ◇ ◇
夜、ユリウスが資料室へ戻ってきた。侍女の記録を調べていた聖堂から、古い祈祷書の写しが届いていた。
「同じ旋律の歌がありました。ミアさんが歌ってくれたので、探す箇所が分かりました」
イレーネは、母が加えた詞を記した紙を隣へ置いた。古い祈りは、その手前で終わっている。
母の言葉は、ミアの名を添えた綴りへ収めた。
祈祷書には、昨日調べたのと同じ印もあった。古い版では『受け入れ』、後の版では『保護』。形を変えずに呼び名だけが変わったことを確かめ、印の写しは森へ送る封筒に入れた。
イレーネは、卓上に残った災害の記録へ手を伸ばした。器へ魔力を送る道が作られた頃の記録も、同じ聖堂から取り寄せていた。
「なぜ、人に受けさせることになったのでしょう」
ユリウスが、最初の頁を開いた。
井戸が使えなくなった村の名が並んでいた。魔力を受け止める魔石は、取り替えてもその日のうちに砕けている。
次の頁に、人へ魔力を送る試験の計画があった。
「魔石の代わりに、人が受けて、使い、外へ返す働きを頼ったのです」
計画の脇には、女神へ光が集まる絵が引用されていた。災害を鎮めたという記録から、『一人への集中によって安定を得る』と結論づけている。集めた後に女神が何をしたかは、引用に含まれていなかった。
イレーネの指が、試験に志願した人の署名で止まった。
その人へ送る道を開いた日から、村々の井戸が再び使えるようになっている。
「この人が、村を救ったのですね」
ユリウスが頷いた。
けれど、読み進めると、同じ名が治療命令にも出てきた。魔力を受け続け、倒れた人の名だった。
その下に、帰宅の申し出が綴じられている。
イレーネは紙の端を持ち上げた。返答の欄には、却下の印があった。
「倒れても、帰れなかったのですか」
「記録では、そうなっています」
続く頁で探されていたのは、次に魔力を受ける人だった。
イレーネは紙を離しかけ、もう一度、最初の署名へ戻った。
井戸を開けた人は、自分の家へは帰れなかった。
年代の新しい名簿では、受け手の氏名が番号に変わっていた。祈祷書の改訂版には『女神の器』という呼び名が加わり、辞退は『祈りの拒絶』と記されている。
イレーネは、帰宅を願った紙に栞を挟んだ。
「ここも、送ってください。最初に、この人が自分で志願したことも」
ユリウスは頷き、署名のある頁から写し始めた。
廊下で小さな足音がして、イレーネは顔を上げた。
その向こうから、ルッツに籠を返す声がした。
タクミへは、もう一枚だけ、ミアが短い手紙を書いた。
『わたしは食べています。そちらでも食べてください』
手紙に封をして使者へ渡すと、外の廊下を石運びの車輪が通った。イレーネは、荷が通り終えるまで開いた扉を押さえた。
窓際の鏡では、新しい接続を知らせる小さな灯が点いた。
エスペルたちから、遺跡に着いて初めての定時連絡だった。
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