第133話 匙を渡した手
翌朝、匙の来歴について各地の聖堂へ頼んでいた調査の返答が届いた。
照会はタクミたちが旅に出る時に、匙の特徴と、ミアの母が持っていた品であることを伝えて出してあった。
届いた記録の中に、地方聖堂が保管していた埋葬簿の、認証付きの写しがあった。前日に食器の台帳で見つけた侍女の名が、そこにも記されていた。
イレーネは受け取りの印を押し、机の上を空けた。ユリウスが紙を広げる。
運んできた使者の外套は濡れていた。朝から、北の道で雨が降っているという。
「本人だと、確かめられますか」
「名だけではなく、年齢、勤め先、それに食器の受領記録が一致します」
亡くなったのは、何年も前だった。
都を離れた後、病を得て、地方の療養所で最期を迎えている。
イレーネは椅子へ腰を下ろした。
まだ会えるかもしれない。その可能性を、誰も口には出していなかった。
出していなくても、なくなれば分かった。
イレーネは使者のために椅子を引いた。濡れた外套を掛ける場所を空け、温かい水を頼む。
知らせを持ってきた人は、それで初めて手袋を外した。
「遺品の照会は、続けますか」
ユリウスが尋ねた。
「残された方が答えられる範囲で。急がせないでください」
すぐに返事が欲しい案件だった。
遺品を守ってきた人にも、手放すかどうかを考える時間が要る。
イレーネは濡れた受領票を乾いた紙の上へ移した。
「ミアさんには、私から話します」
ユリウスは頷き、もう一枚を差し出した。
療養所が保管していた、預かり物の受け渡し記録だった。あの侍女が、研究のために訪れていたミアの母へ、匙を直接渡したと記されていた。
その時の侍女の言葉も、添えられている。
『使える子がいるなら、その子に』
そこに、王位も血筋も書かれていない。
受け取った母は、物品の受領欄に署名していた。ミアの持ち物になったのは、それより後のことだった。
昼前、ミアは話を聞いて、椅子から半分腰を上げた。
「どこ?」
イレーネは地名を伝えた。
「遠い?」
頷く前に、ミアは座り直した。遠いだけなら、そこまで行けばよかった。膝の上の匙を、両手で持ち替える。
「……ありがとうって、言えないの?」
「直接は、言えません」
ミアの指が、三本の溝をなぞった。
「お母さんは、言ったかな」
「会って渡してもらった記録があります。どんな話をしたかまでは、残っていません」
「お母さんにも、聞けない」
イレーネは紙を持たずに、隣の椅子へ移った。
ミアが袖を掴んだ。指が離れるまで、昼の鐘を二人で聞いた。
食卓には、調べるための紙を持ち込まなかった。ミアの前には、白い豆と肉の煮込みがよそわれていた。
いつもの木の匙で白い豆を一つ掬う。ミアは口へ運ばず、椀へ戻した。柄の端に残った煮汁を、指で拭く。
「しまっておかなくていい?」
ガレスが鍋を置いた。
「使ったら、減っちゃう?」
溝は、長く握られたところだけ浅くなっている。
ガレスは自分の木杓子を上げた。縁が、片側だけ丸かった。
「洗って、乾かせばいい。壊れそうなら直す」
「直せる?」
「割れる前に持ってこい」
ミアはもう一度豆を掬った。熱いので息を吹きかける。今度は、口へ入れた。
「お母さんも、こういうの作った」
半分噛んだところで、声が止まった。ガレスは木杓子を持つ手を止め、待った。
「でも、こんなにお肉、入ってなかった」
「今日は入ってる。食え」
笑った拍子に、ミアの頬へ涙が落ちた。イレーネが布を渡す。片方の手で押さえ、もう片方では匙を持っていた。
椀が空になるまで、ガレスは鍋を下げなかった。
洗い場では、ミアが柄の溝を指で洗った。
「明日の朝、取れるところに置いて」
ルッツは乾いた布を広げた。
「ここで乾かしたら、いつもの場所へ戻します」
食後、イレーネは侍女の記録を、事件の資料とは別の薄い綴りにも収めた。
匙を職人へ頼んだ日と、療養所での勤め先も、同じ綴りに写した。
洗い場から戻ってきたミアが、イレーネの隣の椅子に座った。ユリウスは、埋葬簿を調べた聖堂からの追記を読んでいた。
「彼女は療養所で、子供に歌を教えていたそうです」
譜面はない。けれど、書き留められた最初の言葉を聞いて、ミアが顔を上げた。
「それ、知ってる」
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