第132話 小さな違いを残した人
その日の午前、帝都の資料室で、ミアは赤い糸を机の端へ置いた。
「ここから先は、触らない」
自分で決めた場所だった。
母の原本はイレーネの前にあり、ミアの前には写しがある。古い紙を傷めないために、二人の間で約束した。
母の紙には、下の一画だけが違う二つの印が並んでいた。何を表すのか確かめるため、ユリウスが聖堂の目録を持ってきた。
目録にも、よく似た二つの印が載っている。
目録の片方の印には、『保つ』と短い説明が添えられていた。
もう片方の説明は、書き換えた跡が黒く残っていた。ユリウスは、こちらの印を母の紙と見比べた。
「お母さん、ここを何度も描いてた」
ミアは自分の写しを回す。
「私、字の練習だと思ってた。違うって叱られたから」
イレーネが原本を横へ置いた。
怒っているようにも、泣きそうにもならず、ミアと同じ高さから紙を見る。
「どこが違うと言われましたか」
「閉じちゃ駄目って。ここだけは」
小さな指は、紙に触れる手前で止まった。
母の紙の切れ目は、描き損じではなかった。ミアの話を聞き、ユリウスは目録に挟んでいた候補の一覧へ目を戻した。
「証言として残します。ただし、この記憶だけで印の働きは決めません。元の図を探しましょう」
ミアは少し肩を落とした。
「役に立たない?」
「探す場所が、三つから一つになりました」
彼は目録で候補に挙げた三冊を示し、それぞれの図を開いた。切れ目を描き損じと考えれば、どれも候補に残る。だが、母がそこを閉じずに描いたのなら、合うのは一冊だけだった。
二冊を棚へ戻す。ミアは椅子を、残った一冊の方へ寄せた。
残った一冊をミアの前へ寄せる。目録で説明を書き換えられていた印が、ここにも載っていた。外から印へ向かう矢印の脇に、小さな文字がある。
『受け入れ』
ユリウスは別の版から写した薄紙を重ねた。印も矢印も重なるのに、説明だけが『保護』に変わっていた。
「守るって、書いてあるのに?」
ミアが訊いた。
ユリウスは薄紙を横へずらした。
「保護と書いてあっても、これは外から魔力を受け入れる方の印です」
イレーネはそこへ栞を挟んだ。
ミアは、母に叱られた線の切れ目をもう一度見た。閉じなかった、小さな隙間。
大人たちが見ているものの全部は分からない。それでも、母が何も知らずに同じ絵を描いていたのでないことだけは分かった。
昼になると、ガレスが扉を開けた。
「続きは、食ってからだ」
盆には小さな肉団子が載っていた。刻んだ根菜が混ざり、煮汁に薄く脂が浮いている。
ミアは一つを二つに割った。
「タクミの分は?」
「あいつは向こうで食う。お前はこっちだ」
言われてから、半分を自分の口へ入れた。
柔らかかった。根菜だけ、少し歯に触れる。
ミアに覚えていることを聞き終えると、午後は大人たちで台帳の照合を進めることになった。
ミアは初め、椅子に残ろうとした。イレーネは、ミアが見ていた写しを丁寧に畳んだ。
「これは、持っていていいですよ。お母様の紙は、大切にお預かりします」
ミアは写しを受け取り、原本が綴りに収められるのを見届けてから、部屋を出た。
扉の前で写しを開く。小さな切れ目が消えていないのを見てから、ミアは紙を胸へ抱えた。
資料室に残ったユリウスは、別の小箱を開けた。
ミアから、調査の間だけ預かった木の匙。柄に三本の溝がある。
「印の方は、森の資料とも照合を頼みましょう。次は、お母様からミアさんへ渡ったこの匙です。お母様が手に入れる前の持ち主を追っています」
聖堂の修理台帳に、三本の溝を入れるよう指定した記述があった。添えられた図の柄の形と寸法も、預かった匙に合っている。
台帳に記されていたのは、子供の小さな手で滑らないよう、侍女が職人へ頼んだ食器だった。
ユリウスは図の横へ、匙を置いた。同じ品か確かめるには、受け渡された先も追う必要がある。
台帳の末尾には、受け取り人の名と、その後の照会先が記されていた。
イレーネは、その名を一度だけ声に出して読んだ。
調べる対象が、印から、一人の人へ変わった。
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また次の一皿で、お会いしましょう。




