第127話 起こしてはいけない理由
病室に入ると、シラスは起きていた。
膝の上に紙がある。指で押さえた一か所だけ、皺になっていた。
「固定を、解くつもりか」
オルガが椅子を引いた。タクミもその隣へ座る。
「その方法を探している。だが、固定を解く処置はまだしていない」
「なら、間に合う」
シラスは紙を差し出そうとした。肘が震え、ヴェラが下から支える。
描かれていたのは、重なった二つの輪だった。中央に人を示す小さな点がある。
「人を保つ輪。世界から、その人へ送る輪。別の働きを……一組の術式にした」
オルガが眉を寄せる。
「君たちがか」
「最初は……壊さずに済むと思った」
シラスは紙の隅にある数字を指した。名前の代わりに番号があり、その下へ短い線が何本も並んでいる。
「受けるたびに、身体が損なわれた。魔石なら交換する。人には、できない。だから……保てるようにと」
オルガは番号の並ぶ紙へ目を落とした。
「もっと受けても。もっと長く。安全に循環させられれば、と」
タクミは、研究室で見た表題を思い出した。『候補者交換』。
シラスの指が、その短い線の一つで止まる。
「一人が保つようになれば、次は……その一人へ、もっと送る」
その先で声が途切れた。
ヴェラが卓上の砂時計を横にした。まだ砂は残っている。
「今日は、ここまででも」
「これだけは」
シラスの指が、二つの輪の間を行ったり来たりした。
「受け口をつないだまま保つ輪を外せば、傷だけでは済まない。起こすな。……つないだまま、起こすな」
タクミは膝の上の手を開いた。爪を押しつけていた跡が、掌に四つ残っている。
「起こせない、とは言っていないんですね」
「つないだままでは、駄目だ」
タクミは息を吸い直した。まず、外から送る道がつながったままかを調べる。
「彼女の氷血は、冷やすだけではない。身体も、魂も……自分の状態を保つ。普通なら崩れる量でも、保ちやすい」
オルガが帝都の記録を傍らへ置いた。身体と魔力の状態が、同じ時刻で止まっている。
「陛下を保っているのは、ご本人の氷血だ。この研究の術式とは違う。だが、外から送る道と分けて調べる必要は同じだ」
「その力が、器の条件に合ったのか」
「極めて、よく」
「昔、別の誰かだったからではなく?」
タクミが聞くと、シラスは輪の外側を指した。
「女神の転生だからではない。受けても崩れにくい。その性質を、選んだ」
シラスは中央の点を指した。
「そこにいるのは、彼女だ」
タクミは紙を見つめた。
適合する量。保てる時間。紙には細かな欄がある。
彼女がそこへ座りたいかを尋ねる欄は、見当たらなかった。
そこへ、オルガが問いを一つ置いた。
「なぜ、私へ渡さなかった」
長い沈黙になった。
シラスの目が、窓から紙へ戻る。
「君なら、続きを解けると思った」
シラスは紙を引き寄せようとして、途中でやめた。
「壊れない器を作れれば、終わりにしなくてよくなる。私の研究で……次の人を、そこへ座らせられる」
「成功するから、止めたのか」
「ああ」
机の上で、老人の指が曲がった。
「壊れないことと、そこから出られることは、違った」
「私が、そうすると思ったのか」
「誰もしないと、証明できなかった」
「それで、全部を隠した」
オルガの声は低かった。
「隠せば、止まると思った」
「受ける人の負担だけが残った」
シラスは顔を伏せた。
タクミは二人の間の水差しを取った。杯に注いで置くと、老人はそれを両手で持った。
「一人へ送る道を、先に変えるべきだった。私は、保つ方ばかり……」
今度はオルガも、続きを急がなかった。
紙の角を押さえたオルガの手が、白くなっていた。
「誰も利用しないとは、私にも証明できない」
そう答えてから、椅子を少し近づけた。
「だが、使った人、止めた人、外した理由まで残せる。理論だけを渡して、あとは知らないとはしない」
シラスは、オルガではなくタクミを見た。
「君は、一人のために来たのだろう」
「はい」
「その人だけを救える方法が、出たら」
今朝、鏡の向こうで椅子へ戻った人を思い出す。
国境で鍋を持った女の手。橋が鳴ったという子供の声。
「あの人の席へ、別の人を座らせるなら、作り直してもらいます」
言い終わるまで、シラスは目を逸らさなかった。
そこで息が切れた。ヴェラは今度こそ紙を受け取り、話を止めた。
◇ ◇ ◇
昼までシラスを休ませてから、タクミは食事を運んだ。
煮た白豆を潰したものと、薄いパンだった。
タクミが昨夜より香草を減らして出すと、シラスは匂いを確かめてから言った。
「昨日の方が、好きだ」
「では、少し足しても?」
「それは……聞いてくれるのか」
なぜそんなことを言うのか、タクミには分からなかった。
小皿を見せて待つ。シラスが頷くと、ひとつまみ加えた。
食べた時に伝わるものは、昨日より落ち着いていた。疲れも、途中で引っかかるような感覚もある。何が失われ、何が戻ったのかまでは分からない。
ヴェラが記録しているのも、食べた量と、受け答えが続いた時間だった。
「食事の後なら話せる日もあります。でも、思い出せない日は思い出せません」
タクミは頷いた。
◇ ◇ ◇
午後、休息を挟んだシラスは、震える字で閲覧の同意書に署名した。
自分が残した研究記録が、エルフの森の東の分館にあるという。
「全部は、持ち出せなかった。私が止めようとした時には、実験を……」
言葉が詰まった。オルガが続きを求めず、紙を畳む。
「記録に当たる。君の記憶だけを証拠にはしない」
同意書と一緒に、小さな袋が渡された。
中には、麦粒に似た種が三つ入っている。
「魔法種子だ。私が作った。周囲の魔力を少しずつ取り込んで、育つ」
オルガが袋の口を閉じた。
「陛下の治療に使えるのか」
「使えない。これは、畑のために作った」
シラスの声に、初めてわずかな強さが戻った。
「誰か一人に集めるのでなく、小さく分けて使う方法も、調べていた。まだ、植えれば何でも育つ種ではない」
タクミは添えられた育て方を読んだ。
日当たり。水。植える間隔。普通の作物と同じ注意の下に、周囲へ広げる前の観察期間が書かれている。
「食べられるようになったら、味を報告します」
シラスは目を丸くした。
オルガは種の袋を小箱へ収め、ほかの荷に潰されない場所へ置いた。
「そちらの結果も残そう」
退出する直前、シラスがタクミの袖を指した。
「その人は、何が好きなんだ」
焼いた肉。甘いもの。タクミが作ったと言うと、いつも少し早く動く匙。
いくつも浮かんだのに、最初に出たのは別の答えだった。
「戻ったら、もう一度聞きたいです」
シラスの手が膝へ戻った。
「なら、記録だけを連れて帰るな」
帰り際に受け取った目録には、一件だけ、研究とは違う名前があった。
『保存対象本人による、保存中止の申し出』
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