第126話 椅子へ戻った人
帝都からの返事は、約束の時刻を過ぎても来なかった。
通信鏡には、空の机だけが映っている。
タクミは配膳の盆を持ったまま立っていた。
「置け」
リディが机を指す。
盆の上で、薄い汁が揺れていた。
今朝の試験では、皇城地下へ流れ込む経路の一つを、旧離宮側の受け石へ逃がしている。
昨夜見た断面図には、石に刻まれた道があった。槽のような空洞はなく、その道を通して先の放流路へ渡す。
離宮の外へ続く三本の放流路は、一晩かけて人が歩いて確かめたという。周辺の退避も済んでいた。
それでも、返事はない。
道を確かめた人たちは、朝の食事を取れただろうか。
盆を置く。椀の縁へこぼれた汁を拭く。
鏡から目を離しても、返事が届かなくなるわけではない。
それでも、布を絞る間にも目が戻った。
鏡の中を誰かが走った。
紙が落ちる。
「繋がっていますか」
セレスティアだった。
タクミが身を乗り出す。
「どうなりました」
「一組目の受け石への流入は止めました。表面に亀裂が出たので」
オルガが椅子を寄せる。
「流量は」
「安全に受けられる量が、古い記録より少なかったんです。流入を絞って、残る二組へ分け直しています。出口の値は、上がっていません」
セレスティアが横を見る。
しばらくして、向こうから声が来た。
「下がった。中央の針、二目盛り」
タクミはすぐには分からなかった。
オルガが時刻を書き留める。
「そのまま観測を。下がっただけで弁を広げないでくれ」
鏡の向こうで、イレーネが男の肩を叩いた。
術師だった。額に貼りついた髪が、濡れたまま動かない。
「交代です」
「まだ手を離せない」
「次が持っています」
男は後ろを振り返った。
若い術師が頷いている。
ゆっくりと手が下りた。
男は三歩ほど歩き、椅子へ座った。
その前へ、ガレスが椀を置く。
「匙は持てるか」
男は一度握り損ねた。
ガレスは大きい匙を引き、小さな木の匙へ替える。
タクミは、その手元を見ていた。
煮込みの湯気が鏡を少し曇らせる。男が食べ、額の汗を袖で拭いた。
「……寝ても?」
「寝ろ」
それを聞いて、タクミはようやく息を吐いた。
オルガの記録紙に、細い線が一本増える。
「もう七日目です。今夜も、保ちますか」
タクミが聞くと、オルガは書き留めた値を指した。
「今の処理量が続けば、今夜までに流れ込む分は逃がせる。だが、流れ込む量はまだ増えている。観測は続ける」
イレーネは、連絡を待つのではなく、警戒値を越えた時点で避難を進めると答えた。
受け石は消耗する。交換用の石も、運ぶ人も必要だった。
クラウスの声が鏡の外からした。
「必要量を出してください。国境で止まっている物資に含まれているか、確認します」
タクミは自分の盆へ目を下ろした。
こちらの汁は、すっかり冷めている。
「温めます」
「私の分も頼む」
オルガが記録を閉じた。
リディは先に椅子へ座っていた。
小鍋へ汁を戻し、火にかける。
指先の震えが収まるまで、杓子をゆっくり動かした。
湯気が戻った汁を三人の椀へ注ぎ、タクミも椅子に座った。
食べ終えた時、ヴェラが療養棟から来た。
「シラスさんが、呼んでいます」
「話せるんですか」
「長くは。でも、今朝は同じ言葉ばかりではありません」
彼女はオルガを見た。
「皇帝を起こすな、と」
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