第124話 正しいだけの食事
「栄養は足りています」
紫がかった髪の女が、先に言った。
共同厨房の責任者、ヴェラ・キースだった。額へ上げた魔導眼鏡の下で、目が少し赤い。
「水分、塩分、必要な熱量。療養棟の指示通りです」
「食べた分ですか」
タクミが聞くと、帳簿をめくる手が止まった。
午後の返却台には、朝と同じ灰白色の練り物が並んでいた。全部残した皿も、半分食べた皿もある。
「摂取量が落ちていることは把握しています。香辛料は使えません」
「使わなくても、変えられるところはあります」
ヴェラはすぐに鍋を貸さなかった。調理前に療養者ごとの禁止食材を見せ、温度と量を確認した。
タクミは最後まで聞いてから、パンを一切れ持ち上げる。
「表面だけ、焼いても?」
共同厨房の鉄板は、火のないまま熱かった。
薄く切ったパンを載せると、縁から小さな音が立った。焦がさず、乾かしすぎず、香りが変わったところで裏返す。
豆は裏ごしし、元の標準食と同じ量の出汁でのばした。食べる直前に、焼いたパンを細かくして添える。
「混ぜないのですか」
「最初は、香りが残る方が」
ヴェラが一口飲んだ。
次にパンの端をかじる。
「中身は、ほとんど同じですね」
「はい」
「違うものになっています」
けれど、ヴェラはそこで頷いて終わりにはしなかった。
「一人ずつ焼けば、次の人の分が間に合いません。ここでは、一度に四十人分を出します」
返却台の向こうで、助手が食器を重ねていた。洗い場にいるのは一人だけだった。
タクミは鉄板と、配膳する台の間を見た。
「パンは先に薄く切って、一度に焼けますか。汁は今までの鍋で。最後に、自分で入れてもらうんです」
「自分で?」
「柔らかい方がいい人は早めに。香りを残したい人は、食べる直前に」
ヴェラは助手を呼び、試しに四人分を並べた。
助手が一枚のパンを二つに割り、汁とは別に添える。運び出す前に、その手を止めた。
「手が動かない人の分は?」
タクミは並んだ四人分を見直した。
「その人の分だけ、先に希望を聞いて入れましょう。自分で入れなきゃ駄目、にはしないで」
ヴェラが頷き、助手と受け持ちを分ける。
新しい記録紙には、分量の横に、選んだ食べ方の欄ができた。
助手が療養棟へ運び、一人ずつ希望を聞いた。戻ってきた時、全部を汁へ入れる人と、半分だけ浸す人がいたと教えてくれた。
「ひと手間が、こちらだけに増えるわけではないんですね」
正しい分量が、皿に載っている。それだけでは口まで届かない。
初めて配膳が戻った時、タクミは返却口へ寄った。四枚のうち一枚は、ほとんど減っていなかった。
「この方は?」
「今日は匂いがつらいそうです」
ヴェラは失敗の印をつけず、次はパンを別室で焼く、と書いた。
その隣の皿は、底が見えていた。
ヴェラは記録紙に『次も食べたいか』という欄を加えた。
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、療養棟でシラスは窓を見ていた。
白銀の短い髪。痩せた頬。卓には冷めた食器がある。
「シラス」
オルガが名を呼ぶと、老人は振り向いた。
「……君は」
「オルガだ」
瞳に何かが浮かび、すぐに消えた。
オルガはもう一度名前を言おうとして、やめた。
医官の確認を受け、タクミが椀を置く。嚥下には問題がないが、一度に食べさせないよう指示されていた。
「パンを焼きました」
シラスの視線が、窓から椀へ移る。
「……焦げるぞ」
「もう外しました」
「端は、すぐだ」
指が匙に触れた。
タクミは持たせようとせず、待った。
一口飲む。
次に、浮かせたパンを口へ運ぶ。柔らかな豆の後から、薄い皮の香ばしさが残る。
タクミの胸の奥に、小さな違いが触れた。
疲れた身体が食べ物を受け取る反応。その内側で、言葉を探す動きが何度も同じところへぶつかる。
何にぶつかるのかは分からない。
その感覚を追いかけて、食べる手を止めさせるのは違う気がした。
「パンは、別のままがいいですか」
シラスは少し迷い、残った方を自分で汁へ沈めた。
自分でパンを沈めた後の一口では、タクミが感じていた引っかかりが、ほんの一瞬だけほどけた。病状が軽くなったのか、気持ちが動いたのか。タクミには、まだ分けられない。
タクミは、感じたことをオルガへ短く伝えた。
老人の反応が続いた時刻と、食べ方を選んだ時刻が、別々に記録された。
「もっと、香りがあった」
シラスが言った。
「好きだった味ですか」
「母が……いや」
目が泳ぐ。
オルガは質問を足さなかった。ヴェラが、時刻と食べた量だけを書き留める。
シラスは、また一口飲んだ。
「西を閉じるな」
同じ言葉だった。
けれど今度は、続きがあった。
「空の槽が、まだ二つある」
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また次の一皿で、お会いしましょう。




