第122話 境の鍋
国境の門は、閉まっていた。
旅に出た翌日の夕方だった。列の先には、布を掛けた荷車と、抱えた子どもを交互に持ち直す夫婦がいる。
リディが馬車を降りた。
「帝国から照会済みの三名だ」
門番は書状を受け取り、詰所へ消えた。戻ってくるまで、誰も門を開けなかった。
タクミは窓越しに、道端の鍋を見た。
湯は沸いている。先ほど子どもを抱いていた女が、固いパンを握ったまま、その子へ何度も首を振っていた。
「借りてきてもいいですか」
「何を」
「鍋です」
リディは女のいる場所と門を見比べた。
「私から見えるところで」
女は、タクミの申し出に首を傾げた。
「宿へ入れれば、食事があるんだけどね」
「待ってる間だけ、柔らかくしませんか」
干した根菜を薄く削り、女が持っていたパンを湯へ入れる。自分の包みからは、干し肉を少しだけ切り分けた。
鍋を貸した女が、すぐに代金を探し始める。
「肉の分、何か」
「じゃあ、火を見てもらえますか」
女は薪を一本折った。
煮えるまでの間に、子どもが何度も立とうとした。女が腰を押さえる。靴の踵には、乾いた泥が厚くついていた。
「家、遠いの?」
タクミが聞くと、子どもは道の先を指した。
「橋が、鳴った」
「鳴った?」
「白くなって。馬が通れなくなった」
女が口を結んだ。近くで地図を見ていたオルガが、その橋の名だけを尋ねる。
その橋は、帝都から来た道を外れ、北側の支流に架かっていた。
パンがほどけ、薄く削った根菜も、匙の背で潰れるほどになった。
詰所の裏で、乾いた音がした。
門番が駆け戻り、壁の魔灯へ布を掛ける。白い光が、布越しにも漏れていた。
「消せないんですか」
「切った。なのに、また入ってくる」
オルガは近づかず、壁から延びる溝を目で追った。
「触るな。上の中継石も調べた方がいい」
門番が子どもたちを離す。女は鍋を持ち上げようとして、熱い取っ手から指を引いた。
タクミは布を渡し、二人で鍋を道の反対側へ移した。
帝都で聞いた報告には、ここで鍋を持ち直す女のことまでは書いてなかった。
「少し冷ましてから、食べてください」
女は頷き、子どもを自分の膝へ座らせた。
スープを椀へよそう。パンが崩れ、根菜の甘さを含んだ汁に薄いとろみがついている。子どもは匙を使わず、最初は両手で椀を抱えた。
「持ってるだけでもいいよ」
しばらくすると、自分から唇を寄せた。
女も、自分の椀へ口をつけた。
タクミの背中へ、靴音が近づいた。
「滞在許可が出た」
リディだった。
「研究者の捜索と、指定施設での調査。護衛は現地の者も付く」
「この人たちは?」
「避難者の名簿を作っている。こっちと同じ許可ではない」
門番は鍋ではなく、避難者の荷札を見ていた。
やがて別の係が来て、夫婦を門の内側の待合所へ案内する。
タクミが鍋を持ち上げると、女が反対側の取っ手へ手を伸ばした。
「運ぶくらい、できるよ」
「そっちの取っ手は、まだ熱いです」
「じゃあ、そっちは任せるよ」
タクミが持ち替えると、女は空いた方の取っ手を布で包んだ。
二人で、鍋を運んだ。
詰所へ戻ると、オルガが橋の位置へ小さな印を付けていた。
「帝都の封印とは別の場所でも、異常が出ている」
「ここの灯りも、帝都と同じことが起きているんですか」
「まだ分からない。橋のことも、観測所で照合する」
門番が新しい書面を渡した。
観測所までの道順と、立入りを認める施設の名が書かれている。
オルガの指が、最後の一行で止まった。
「シラス・ヴェルナー。行方不明ではなく、保護記録あり」
「見つかったんですか」
「名前の照合が遅れていたらしい」
タクミは紙を覗き込んだ。
研究者の名の隣に、短く付記があった。
面会時、同じ質問を繰り返さないこと。
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