第121話 残す人、行く人
夜明け前から、皇城の鐘が鳴っていた。
一度。
間を置いて、二度。
タクミは荷袋を閉じかけた手を止めた。
「地下ですか」
「いや」
窓際で外を見ていたリディが答える。
「西街道だ。昨夜から魔力流が乱れている。避難の荷車が二台、まだ戻っていない」
タクミは窓へ近づいた。
空は白み始めている。
けれど、城門前には夜のうちに着いた荷車が並んでいた。
毛布。
水桶。
乾燥豆。
治療用の薬草。
戦うためのものより、生き延びるためのものの方が多い。
シィルヴィアが倒れても、世界は元には戻らなかった。
「東部からも報告が来ている」
机に書類を広げていたオルガが言った。
「井戸の水温が一晩で上がった村が二つ。南では、祈祷所の魔石が割れた。今のところ、人的被害の報告はない」
「今は、ですね」
「ああ」
オルガは否定しなかった。
タクミは荷袋へ視線を戻す。
包丁、鍋、木のスプーン、ガレスが持たせた保存食。
必要なものだけを入れたはずなのに、昨日までより重く感じた。
「行きましょう」
荷袋を背負う。
「待て」
リディが扉を開ける。
「その前に地下だ」
◇ ◇ ◇
皇城地下へ続く石段には、三重の柵が置かれていた。
その先に、厚い封鎖扉がある。
扉の表面を、青白い術式が走っていた。
四人の術師が床へ座り、封鎖扉の術式へ魔力を送り続けている。
一人の手が震えていた。
「交代は」
オルガが尋ねる。
「二刻後です」
答えた術師の声は掠れている。
壁際には、冷めた椀が置かれていた。
半分も減っていない。
タクミの目が、そこへ止まる。
「食べてないんですか」
「あとで」
「昨日も、そう言っていたそうです」
後ろからガレスの声がした。
大きな鍋を載せた台車を、厨房員と二人で押してくる。
「だから、こっちはこっちでやる」
蓋を開ける。
湯気と一緒に、炒った玉ねぎと豆の匂いが広がった。
術師の一人が、わずかに顔を上げる。
「でも、持ち場を」
「椀はここへ持ってくる」
ガレスは言った。
「匙を動かす手くらい残しておけ。扉より先にお前が倒れる」
術師は苦笑して、それ以上は断らなかった。
オルガが扉の前へしゃがむ。
床へ埋め込まれた測定板には、細い針が七本並んでいた。
そのうち五本が、赤い線の近くまで上がっている。
「昨日より、上がっている」
「どれくらいですか」
「このままなら、アベルの予測を否定できない」
七日も保たない。
あの言葉が、タクミの中に戻ってくる。
「扉を閉じても、止まらないんですね」
「止めたのは、扉の向こうから来る追撃だ」
オルガは測定板の脇にある図を指した。扉を表す太い線とは別に、細い線が床の下から何本も伸びている。
「こちらの経路では、封鎖後も数値が上がっている」
「陛下が、ご自分を固定した後も?」
「ああ。何が起きているのかは、まだ分からない。扉を厚くするだけでは、この針は下がらなかった」
針の一本が、小さく震えた。
タクミは図から寝台のある上階へ目を向けた。彼女が止めているのは、自分の死だ。外では、まだ別のものが動いている。
「街道の異常も、この線からですか」
「それを確かめる資料も、向こうにある。今は、ここに来る量を減らしてもらう」
隣の術師が作業表を上げた。不要な接続の閉鎖と、その手前にある施設の避難。確認済みの経路から一つずつ閉じ、手前の針が上がれば開き直す。
昼からは別班が入る。施療院の移転はイレーネが、石と食料の手配はクラウスが受け持っていた。
ガレスが椀を一つ、術師へ渡した。
「なら、こっちで持ちこたえている間に行ってこい」
タクミが振り向く。
「でも」
「残る仕事まで持っていくな」
ガレスは次の椀へスープを注いだ。
「お前は、お前の仕事をしろ」
タクミはしばらく、湯気の向こうにいる術師たちを見ていた。
それから頭を下げる。
「お願いします」
「ああ」
それだけだった。
◇ ◇ ◇
シィルヴィアの部屋には、朝の光が入っていた。
暖炉の火は消えていない。
寝台の上で、銀色の髪だけが淡く光っている。
昨夜と何も変わっていなかった。
それが、今は怖かった。
良くもならない。
悪くもならない。
死の直前だけが、そこに残されている。
エレナが測定器を確認していた。
「状態に変化はありません」
「解除したら」
「傷も動き始めます」
分かっていた答えだった。
それでもタクミは、もう一度聞いた。
「治療しながら解除するのは?」
「今の私たちには、どこから解除すればいいのかさえ分かりません」
エレナは測定器を置いた。
「だから、調べてきてください」
タクミはシィルヴィアのそばへ行く。
机には、昨日置いた返事がそのまま残っていた。
――必ず戻ります。
――最初の二枚は、二人で。
その紙の横に、小さな皿が置かれている。
「ガレスさんが?」
「はい。朝食です」
「食べられないのに」
「毎朝置くそうです」
タクミは少しだけ笑った。
「そうですか」
シィルヴィアの手には触れなかった。
昨夜も、握れない手の隣へ自分の手を置いた。
今日は戻ってくるために、離れる日だった。
「行ってきます」
返事はない。
「また一緒に、朝ごはんにしましょう」
扉へ向かう。
今度は、振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
城門には、三台の馬車が待っていた。タクミたちの一台と、国境まで物資を運ぶ二台だった。
リディが荷物を積み、オルガが書類箱を確認している。
その少し離れたところで、ミアが帳面を抱えていた。
「ミア」
「うん」
「本当に、残れる?」
「残る」
即答だった。
「イレーネと、ユリウスが調べる。私も、知ってることを話す」
抱えた帳面を少し持ち上げる。
「見つけたら、送る」
「ありがとう」
「タクミも送って」
「何を?」
「食べたもの」
タクミは瞬きをした。
「それ、必要?」
「必要」
ミアは真顔だった。
「食べてないって分かったら、ガレスに言う」
「……分かった」
リディが荷台から顔を出した。
「私にも送れ。こいつは信用ならん」
「同じ馬車ですよね?」
「だから監視する」
「それ、手紙いらなくないですか」
ミアが少し笑った。
ほんの少しだけ、いつもの朝に戻った。
城門が開く。
その向こうには、魔法国家へ続く街道が伸びていた。
タクミが馬車へ乗ろうとした時、後ろから文官が走ってきた。
「オルガ殿!」
オルガが振り返る。
「魔法国家から、追加の返答です!」
封書を受け取る。
オルガはその場で封を切った。
目が、止まった。
「どうしました」
タクミが尋ねる。
オルガは紙を握ったまま、しばらく答えなかった。
「研究室の立入記録が届いた」
「研究者は?」
「戻っていない」
昨夜聞いた話と同じだった。
だが、続きがあった。
「三日前に観測所へ入った男がいる」
オルガが顔を上げる。
「研究室ではなく、そちらへ食事が運ばれていた。倒れて、療養棟へ移されたそうだ」
タクミは馬車へ掛けた足を戻した。
「その人が、研究者ですか」
「まだ本人の確認が取れていない。会話が続かないらしい」
オルガは封書を折る。
「観測所には、探している研究者と同じ筆跡の図面がある」
その視線が、街道の先へ向いた。
「食器と、食べ残したものも、そのままだそうだ」
馬車が動き出した。
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