第118話 止まった時間
「心臓も呼吸も、動いていない」
オルガは測定記録を、タクミから見える向きに置いた。
記録の線は、どれも途中で止まっている。
「だが、魂は身体から離れていない」
「それなら」
「死へ進む直前の結びつきが、そのまま保たれている」
タクミの言葉が止まる。
寝台へ目を向ける。
胸は動かない。呼んでも返事はない。
ミアは椅子の横で、記録板を抱えていた。
「治したら、起きる?」
オルガはすぐには答えなかった。
セレスティアが寝台の横へ立つ。
「試します」
セレスティアの掌に淡い光が集まる。
傷の周囲へ触れると、光は皮膚の手前で止まった。
傷も血も、変わらない。
「治るという変化も、今は起きません」
セレスティアが手を下ろす。
「外から温めても、ほどける氷ではありません」
タクミはシィルヴィアの手を見る。
白く、冷たい。
氷は張っていない。指で触れると、確かに彼女の手だった。
「固定を解けば?」
「傷も同時に進む」
オルガの答えは短い。
「出血も、心臓も、呼吸も。一斉に動き出す可能性がある」
「治癒を先に入れてからは」
「入らない」
セレスティアは、傷を見たまま答えた。
「固定されている間は、治癒そのものが進みません」
タクミは俯いた。
扉が開く。
ガレスが鍋を持って入ってきた。
「持ってきたぞ」
鶏の出汁に、柔らかい米が浮いていた。
ガレスが白い椀へ少しだけよそう。湯気と一緒に、出汁の匂いが上がった。
タクミは木のスプーンで一口すくった。
近づけると、湯気がシィルヴィアの頬を通る。
「さっきは、食べたのに」
祭壇では、一口食べた。
――熱い。
そう言って、自分の足で一歩下がった。
もう一度なら。
口元へ運びかけて、手を止めた。
唇も、喉も動かない。
タクミはスプーンを戻した。
「……駄目ですね」
ガレスは何も言わない。
オルガも。
「食べてもらわないと、反応も見られない」
椀の中へ、米が一粒落ちた。
「食べられたとしても……何を、どの順番で戻せばいいのか」
タクミはスプーンを置いた。
「僕には、まだ分からない」
「これを見てくれ」
オルガが二つの記録を並べる。
一つは厨房で、雑炊を食べたあとに右手が動いた時の記録。
もう一つは祭壇で、外からの祈りと本人の反応が分かれ、自分の足で下がった時の記録だった。
「どちらも、起きたことだ」
タクミは線を見る。
「偶然では」
「断定はしない」
オルガは首を振る。
「だが、記録から消す理由もない」
ミアが母の写しを隣へ置いた。
「ここ」
保つ印と、受け入れる印。
オルガが線の違いを指でたどる。
「保たれたものを、まとめて動かすべきではない」
「どういうこと?」
「身体。傷。魂。人格。外から入ったもの」
オルガは一つずつ指を置く。
「全部を一度に解けば、何が先に動くか分からない」
「分けて戻す?」
「おそらく」
オルガはそこで止めた。
「でも、手順がない」
タクミは記録へ目を落とした。
止まった線の横に、右手が動いた時の線がある。
「ここには?」
タクミが聞く。
「ここには、ない」
部屋が静かになる。
ガレスが雑炊の椀を受け取った。
まだ残っていた熱が、タクミの指から離れる。
手の中が空になる。
机の上には、二つの記録が残っていた。
タクミはそれを、自分の前へ引き寄せた。
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