第117話 返せなかった言葉
リディが担架を下ろした時、窓の外はまだ暗かった。
皇城の医務室。
地下から運び上げる間に、何度も扉をくぐった。
階段も。
回廊も。
人の声もあった。
それでもタクミには、一つの長い廊下を歩き続けていたように感じた。
閉じた地下の扉は、衛兵と術師に託した。
アベルも拘束したまま別室へ移されている。
祭壇の光は追ってこなかった。
シィルヴィアも。
動かなかった。
寝台へ移すため、握っていた手を放す。
指が離れた瞬間、自分の掌に残っていた血が見えた。
赤い。
もう乾き始めている。
シィルヴィアの背中から流れた血は、途中で止まった。
自分の手へ移ったものだけが、普通に時間を進めている。
「手を」
リディが濡らした布を差し出した。
タクミは受け取る。
拭こうとして、指が動かない。
「……僕は」
声が落ちる。
「何も知らないで」
布を握ったまま、北門を思い出した。
銀の髪。蒼い目。
――おかえり、タクミ。
あの言葉。
自分は意味も分からず立っていた。
雑炊を食べ終えたあと、空の椀を差し出して。
――もう一杯。
そう言った声。
毎日の食卓。
何も言わず向かいへ座る人。
食べ終わるまで帰らない人。
自分が忙しければ、勝手に予定を空ける人。
皇帝なのに。
食事だけは、妙に真面目だった。
自分は。
帰る場所をもらったのだと思っていた。
でも。
帰りを待っていた人が、先にいた。
「僕が忘れてたから」
「それで全部を決めるな」
リディが言った。
タクミが顔を上げる。
リディは寝台を見ていた。
「陛下が毎日食事に来た理由を、十年前だけにするな」
言葉が止まる。
「今日の飯を待っていたのも、陛下だ」
タクミは寝台を見た。
最初の二枚は、二人で。
そう言った時の顔が浮かぶ。
握っていた布を開き、指の血を拭いた。
一度では落ちない。布を折り返して、もう一度拭く。
赤い色が少しずつ薄くなる。
胸元から紙を取り出す。
地下へ入る前に預かった手紙。
封はない。
一行だけ。
――あなたを守りたい。
続きは、戻ってから書く。
そう言った。
置き手紙にはしない、と。
タクミは紙を畳み直し、血のついていない内ポケットへ移した。
「続き、聞きます」
眠る人へ向けた声は小さい。
「戻ってきたら」
少し迷う。
「僕も、返します」
内ポケットの上から、紙のある場所を押さえた。
リディが椅子を寝台へ寄せる。
タクミはそこへ座った。
オルガが測定具を置いた。
セレスティアは少し離れたところで、治癒の光を消していた。
使えないからではない。
何度当てても。
その先へ進まなかったからだ。
ミアが扉の外から覗く。
入っていいか聞かない。
タクミが椅子を少しずらすと、その隙間へ静かに入った。
誰も。
大丈夫とは言わなかった。
誰も。
もう無理だとも言わなかった。
オルガが記録を見直す。
「先に、一つだけ」
タクミは両手を膝へ置いた。
聞く。
「死んではいない」
息を吐けたのか。
分からなかった。
ミアの指が、抱えていた記録板から少しだけ離れる。
リディが目を閉じる。
一度だけ。
オルガは続けた。
「ただ、普通に生きている状態でもない」
タクミは寝台を見る。
冷たい手。
動かない胸。
それでも。
さっきまで握り返していた指。
タクミは寝台から目を離し、オルガを見た。
「何が起きてるのか、教えてください」
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