第112話 置いていかない手紙
シィルヴィアは、書きかけの命令書を机の引き出しから出した。
三枚。
帝国へ。
臣下へ。
そして、タクミへ。
最後の紙にだけ、封がなかった。
「先に書いていた」
タクミは一枚目へ目を落とす。
最初の行にあった言葉へ、太い線が引かれていた。
――皇帝不在の場合。
「消すんですか」
「地下作戦中と書き直す」
シィルヴィアは羽根筆を取る。
権限を預ける相手と、避難の責任者を書き足していく。
軍。
医務室。
厨房。
地下の封鎖。
短い文が、ひとつずつ並んだ。
「置いていく準備ではない」
タクミは返事をしなかった。
最後の一枚を見る。
途中までしか書かれていない。
――あなたを守りたい。
その先は空白だった。
「これは?」
シィルヴィアの筆が止まる。
「続きは、戻ってから書く」
紙を畳む。
封はしない。
そのままタクミへ差し出した。
「預ける」
「僕に?」
「置き手紙にはしない」
タクミは両手で受け取った。
胸元へしまう前に、もう一度だけ文字を見る。
あなたを守りたい。
答えはまだ書けない。
「預かります」
シィルヴィアが頷いた。
扉の外では、リディが待っている。
「準備が整いました」
「行く」
シィルヴィアは先に歩きかけた。
そこで止まる。
タクミが小鍋の蓋を布で結び、肩紐を直すのを待った。
「大丈夫です」
「なら行く」
一人で先へは行かなかった。
◇ ◇ ◇
地下へ入る手前で、ミアが記録板をオルガへ渡した。
「母さんの写し。ここと、ここの印が違う」
指したのは、二つの紋だった。
押収した図では、同じものとして書き写されている。
けれど、ミアの母が残した写しでは線の向きが違った。
「保つ印と、受け入れる印」
オルガが見比べる。
「訳を混同した可能性がある」
「違うもの?」
「少なくとも、同じ働きとは限らない」
オルガは両方を書き留めた。
ミアの手が、板の端から離れない。
「私は、上で待ってる」
タクミが目の高さを合わせる。
「お願いします」
「道が変わったら知らせる。地上の封印記録も見る」
「頼んだ」
エスペルが先に分岐へ目印を置く。
リディは最後尾と人数を確認した。
アベルは衛兵二人の間を歩く。
杖はない。
両手には枷。
石の階段を下りる。
一段進むごとに、空気が冷えていく。
タクミは小鍋の蓋へ手を置いた。
中には、厨房で煮た雑炊が入っている。
火を消してから時間は経っていない。
布越しにも、まだ温かさが分かった。
「止まって」
エスペルが手を上げた。
先に、丸い広間が見える。
古い石柱。
壁へ刻まれた溝。
中央には、低い祭壇。
入口でシィルヴィアが足を止めた。
まだ一歩も入っていない。
それなのに。
床の紋が淡く光った。
白い線が、石の隙間を走る。
真っ直ぐ、シィルヴィアの影へ伸びた。
「作動している」
オルガの声が強くなる。
アベルを見る。
彼は何も触れていない。
衛兵の間で、両手を見える位置に上げている。
「私は動かしていません」
「分かっています」
それでも、祭壇は彼女を見つけた。
頭の内側へ、あの冷たい判定が落ちる。
――固定器を確認。
タクミは小鍋を握り直した。
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