第110話 最後にしない雑炊
タクミは、シィルヴィアを厨房へ呼ぶ前にオルガを探した。
地下の測定記録を整理していたところを見つける。
「食べたいのに、味が遠いそうです」
オルガの手が止まった。
「痛みは」
「ないと言ってました」
「飲み込みにくさは?」
「今のところは」
オルガは温度と魔力の記録を一枚抜き、立ち上がる。
「無理に食べさせないこと。苦しければ中止します」
「はい」
厨房の端に、小さな卓を用意した。
シィルヴィアは自分で椅子を引く。
オルガが横に測定具を置くと、少しだけ眉を寄せた。
「食べるかどうかは、私が言う」
「もちろんです」
タクミは炊いてあった米を、冷たい水でさっと洗った。
白い粒が指の間を流れる。
鍋へ入れ、鶏の出汁を注ぐ。
弱い火にかける。
湯気が立つと、木杓子の背で固まりをゆっくりほどいた。
米の形を潰さない。
粒の間へ出汁が入るくらいで手を止める。
香草は使わなかった。
北門で渡した椀を思い出す。
あの時も、足したのは最後の塩だけだった。
ほんの少し。
湯気の匂いを確かめる。
「同じですか」
シィルヴィアが聞いた。
「できるだけ」
「できるだけ?」
「あの時は、鍋も米も違いましたから」
「味まで言い訳するな」
「まだ食べてません」
少しだけ、いつもの調子だった。
タクミは白い椀へよそう。
卓へ置いた瞬間、湯気の片側だけ動きが遅くなった。
シィルヴィアの右手に近い側だ。
測定針がかすかに揺れ、オルガの目がシィルヴィアの白い右手へ移った。
「椀は持たないでください」
下へ厚い布を敷く。
「木のスプーンを左側に置きます。右手は使わなくていいです」
「そこまでされるほどではない」
「今は、そこまでします」
シィルヴィアは何も言わなかった。
左手で木のスプーンを取る。
一口目。
ゆっくり口へ運ぶ。
飲み込んだあと、睫毛がわずかに動いた。
「熱い」
タクミは息を止めかけた。
「苦しくは?」
オルガが先に聞く。
「ない」
「手は」
「同じだ」
右手の白さは変わらない。
タクミは二口目を急かさなかった。
シィルヴィアが自分で次をすくうのを待つ。
タクミは鍋へ戻った。
米の固まりを、一つだけほどく。
それ以上は混ぜなかった。
二口目。
指先は変わらない。
三口目。
シィルヴィアの右手が、ゆっくり開いた。
卓の上に置いていた指が、一本ずつ離れる。
オルガが測定針へ顔を寄せた。
「動きました」
「何がですか」
「止まっていた位置から、一目盛りだけ」
シィルヴィアは自分の手を見る。
それから、もう一口。
「……甘い」
「米の味です」
「分かっている」
少しだけ、声が戻った。
タクミの肩から力が抜ける。
けれど、鍋へ手を伸ばす前に止めた。
オルガと目が合う。
シィルヴィアはスプーンを手放さないまま聞いた。
「卵は、入れないのか」
「入れません」
「なぜ」
「今日はここまでです」
不満そうに見える。
「次にしましょう」
「約束が増えた」
「増やしてます」
椀の底が見えた。
全部食べたあとも、右手は少しだけ開いていた。
やがて、測定針の動きはまた鈍くなる。
指も、少しずつ白さを取り戻した。
「治ったわけではありません」
シィルヴィアが頷く。
「分かっている」
「ただ、本人の反応が戻った時間があります」
タクミは空になった椀を見る。
「その時間で、できることを考えよう」
シィルヴィアが言った。
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