第109話 世界を救う一人
図を携え、アベルを拘束している別室へ移った。
椅子の両側には、衛兵が一人ずつ立っている。
卓へ広げ直した図の中の人間には、顔がなかった。
名前もない。
あるのは、周囲から集まる無数の線と、その向こうに描かれた荒れた大地だけだった。
別の頁を重ねると、同じ土地に草木が戻っている。
「女神降臨によって、災害は止まりました」
拘束椅子に座ったアベルが言った。
両手には枷がある。
杖も鍵も持っていない。
それでも、その声には迷いがなかった。
「私は、その後の土地を見ています」
タクミは最初の図を指した。
「この人は」
「記録上は、生存しています」
「名前は?」
アベルは答えなかった。
オルガが別の紙を重ねる。
災害の年月。
被害を受けた土地。
器となった人物の欄。
そこにあるのは、番号だけだった。
「名前がないんですか」
「白い塔に残る写しでは」
セレスティアの声が低くなる。
タクミはもう一度、顔のない人を見る。
「人格が残った証明にはなりません」
オルガが言う。
「承知しています」
アベルの右手が、黒い手袋の中で動いた。
「それでも、何千という人が生き延びた」
部屋の端で、クラウスが腕を組む。
「他の方法は」
「百年以上、見つかっていません」
「今回も同じ結果になる保証は?」
セレスティアの問いに、アベルはシィルヴィアを見た。
「これほど強い固定の力ならば」
「可能性の話です」
セレスティアが遮った。
図を伏せる。
「この方の意思を、成功の証拠の代わりにはできません」
アベルは黙った。
怒ったようには見えなかった。
ただ、伏せられた図を見ている。
シィルヴィアは、伏せられた紙を長く見た。
「封印の補強は」
オルガが測定記録を開く。
「外側は保てます。今朝の崩壊箇所も、術師を増やせば一時的には」
「一時的」
「はい」
短い返事だった。
「流れ込む量が増え続ければ、限界があります」
シィルヴィアの視線が窓の外へ向いた。
皇城の壁。
その向こうには帝都がある。
「各国へ避難情報を送れ」
リディが頷く。
「承知しました」
「帝都も、封鎖区画を広げる。地下へ近い住民から移せ」
「はい」
アベルが何か言いかける。
シィルヴィアは見なかった。
◇ ◇ ◇
面会を終えると、廊下の灯が足元を照らしていた。
執務室へ戻ると、先ほど運んだ椀が半分残っている。
豆と根菜の煮込みは、もう湯気を立てていなかった。
「下げますね」
タクミが盆へ手を伸ばす。
シィルヴィアの指が、椀の縁へ触れた。
「もう少し置いておけ」
「温め直します」
「……そうしてくれ」
タクミは厨房へ椀を運び、小鍋に移して温め直した。
根菜が崩れないよう、木杓子を底へ入れる。
湯気と一緒に、豆の甘い匂いが戻る。
椀へよそい直して持っていくと、シィルヴィアは自分で匙を取った。
一口。
動きが止まる。
「熱すぎましたか?」
「違う」
二口目。
また、途中で手が止まった。
タクミは向かいへ椅子を寄せた。
「味、分かりますか」
シィルヴィアはすぐには答えなかった。
舌で確かめるように、もう一度だけ汁を飲む。
「遠い」
「遠い?」
「食べていることは分かる。だが……遠くで誰かが食べているみたいだ」
匙が置かれた。
右手の指先は、朝より白い。
タクミは椀と、その手を交互に見た。
「北門で」
シィルヴィアが言う。
「あなたが作った雑炊を覚えている」
「はい」
「あれは、ちゃんと分かった」
声が一度切れる。
「最後に、あれを食べたい」
タクミは盆を持ち上げなかった。
胸の奥に、嫌な重さが落ちる。
「次の食事にします」
シィルヴィアが顔を上げた。
「最後にと言った」
「聞こえました」
「なら」
「最後にはしません」
言葉が重なった。
シィルヴィアの指が、匙の柄の上で止まる。
タクミは椀を持ち上げる。
「次に食べるものにします」
返事はなかった。
けれど、下げようとした盆へ伸びていた手は、ゆっくり引かれた。
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