第106話 卵を割る約束
最後の書類を閉じても、シィルヴィアは椀を返さなかった。
底には鶏の澄まし汁が少しだけ残っている。
扉の前で報告を終えたリディが、予定帳を閉じた。
「移動は明朝へ変更されました」
「離宮ですか」
タクミが聞く。
「はい。地下との接続状況を確認してから移動します」
シィルヴィアが窓を見る。
「動かしたことで封印が反応すれば、離宮へ災害を持ち込むことになる」
「今夜は皇城に?」
「そうなる」
窓の下では、術師たちが交代の合図を送っていた。
地下へ続く回廊は閉じたまま。
離宮へ運ぶ荷も、まだ廊下に積まれている。
タクミは空いた皿を重ねた。
盆の端に載せていた小さな包みが、書類へ触れる。
紙がわずかに動いた。
「それは」
シィルヴィアが目を向ける。
「薄焼き卵です」
「朝の?」
「朝の続きです」
包みを開く。
少し焦げた匂いがした。
エスペルが朝食後、もう一度だけ焼いたものだ。
今度は火を弱めたらしい。
端の黒さは減ったが、形は少し歪んでいる。
ガレスが食べられるところだけ切り分けてくれた。
「本人は?」
「味見して、塩を減らしすぎたって言ってました」
「進歩しているのか」
「たぶん」
シィルヴィアは一切れつまむ。
薄い端が少しだけ曲がった。
一口食べて、しばらく噛む。
「どうですか」
「朝より薄い」
「そこは成功です」
「味が薄い」
「そこは次ですね」
シィルヴィアはもう一切れ取った。
「私の番は、まだだった」
タクミは首を傾げる。
「何の番ですか」
「これを作る」
「ああ」
朝の食卓を思い出す。
エスペルが一品作ると言い、シィルヴィアも「私も」と言った。
リディとガレスが同時に警戒した場面だ。
「卵を割るところからですね」
「そこを忘れなくてもよい」
「大事です」
「できる」
「殻ごと入ったら取り出します」
「入らない」
「握りつぶさなければ」
「タクミ」
声が一段低くなった。
タクミは笑いをこらえ、包みを二人の間へ置く。
シィルヴィアが、焦げていない方をタクミ側へ寄せた。
「そっちの方がきれいです」
「分かっている」
「自分で食べないんですか」
「一つ食べた」
「二つ食べてます」
指が止まる。
「見ていたのか」
「向かいにいるので」
タクミも一切れ口へ入れた。
薄い端は少し硬かったが、真ん中はしっとりしていた。噛むほどに卵の甘さがした。
シィルヴィアは少し黙った。
「……落ち着いたら、一緒に作ろう」
タクミは包みを閉じかけた手を止める。
「はい」
タクミは頷く。
「何人分にしますか」
「二人」
答えが早かった。
「ミアの分は」
一拍。
「三人」
扉の脇で、リディが咳払いをした。
「護衛は必要です」
シィルヴィアがそちらを見る。
「四人」
「厨房は俺の許可が要るぞ」
盆を取りに来たガレスが、開いた扉の向こうから言った。
シィルヴィアが黙る。
タクミは指を折りかけて、やめた。
「大きいフライパンを借りましょう」
「そういう問題ではない」
リディが言う。
「人数を増やすな」
シィルヴィアが言う。
「最初は二人分でよい」
声が少し小さかった。
タクミは皿を重ねる手を止める。
「じゃあ、最初の二枚は二人で」
シィルヴィアは返事をしなかった。
代わりに、最後の一切れを食べる。
噛むのが、少しだけ遅かった。
リディが予定帳を開く。
「日付は空けておきます」
「書くのか」
「予定ですので」
「まだ決まっていない」
「だから日付は空欄です」
羽根筆が動く。
場所も空欄。
人数も空欄。
料理名だけが書かれた。
――薄焼き卵。
ガレスが空の盆を受け取る。
「卵くらいなら残しておいてやる」
「ありがとうございます」
「陛下に包丁は持たせるなよ」
「卵を割るだけです」
「その次だ」
シィルヴィアの目が細くなる。
「信用がない」
朝と同じ言葉だった。
タクミが吹き出しかける。
その瞬間。
廊下で金属音がした。
笑いが止まる。
何かが床を擦る。
一度。
二度。
リディの手が、予定帳から剣へ移った。
「下がってください」
扉の隙間から、細いものが差し込まれる。
短杖だった。
先端に白い紋が灯る。
シィルヴィアが立ち上がる。
タクミは反射的に、予定帳を抱えたリディの後ろへ下がった。
廊下の向こうで、低い声が響く。
「固定器を確保せよ」
リディが扉を蹴り開ける。
閉じた予定帳が、リディの腕から落ちた。
開いた頁には、料理の名前だけが残っていた。
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