第105話 巻き込まれている
夕食の盆には、二つの椀を載せた。
鶏の澄まし汁。
柔らかく煮た根菜。
黒パンは、いつもより少し薄く切ってある。
離宮へ移る支度の途中でも食べられるよう、根菜は匙で崩れるくらいまで煮た。
香草は控えめにした。
味が濃いと、考え事をしている時のシィルヴィアは手を止める。
そこまで考えてから、タクミは少し首を傾げた。
いつから、そんなことまで分かるようになったのだろう。
「入れ」
扉の向こうから声がする。
執務室へ入ると、荷物より書類の方が多かった。
机。
長椅子。
窓際の小卓。
どこにも紙が積まれている。
「離宮へ持っていく荷物ですか」
「これは帝都に残すもの」
「こっちは?」
「離宮で読む」
「その山は」
「今夜読む」
「減ってません」
「増えた」
「そういう意味じゃないです」
タクミは盆を置いた。
シィルヴィアは書状から目を上げない。
「食べながら仕事をしないでください」
「まだ食べていない」
「もっと駄目です」
机の端にあった匙を取る。
その下から、さらに書類が一枚出てきた。
「皇帝の持ち物を勝手に動かすな」
「匙まで皇帝の持ち物なんですか」
「ここにあるものは、だいたいそうだ」
タクミは匙を見た。
次にシィルヴィアを見る。
「じゃあ、皇帝じゃない方の手で食べてください」
ようやく視線が上がった。
「何だ、それは」
「本人の手です」
瞳が少し見開かれる。
タクミは、匙を彼女の前へ置いた。
シィルヴィアの目が、ほんの少し細くなる。
笑ったのだと気づくまで、一拍かかった。
「座れ」
「先に一口」
「命令しているのは私だ」
「食事を出してるのは僕です」
また少し目が細くなる。
シィルヴィアは椀を持った。
右手ではない。
まだ白さの残る右手は机の上へ置き、左で木の匙を取る。
一口。
澄んだ汁をゆっくり飲む。
「熱くないですか」
「ちょうどいい」
「味は」
「薄い」
「考え事してる時は、このくらいの方が食べるので」
匙が止まった。
「見ていたのか」
「食べてもらう仕事なので」
返事はなかった。
けれど二口目は早かった。
タクミも向かいへ座る。
自分の椀から、柔らかくなった根菜を一つすくった。
口に入れると、鶏の出汁が中まで染みている。
朝から地下だ、器だ、隔離だと話していたせいか、普通の味が少し遠く感じた。
「あなたを巻き込みたくないと言った」
シィルヴィアが不意に言う。
タクミは根菜を飲み込んだ。
「はい」
「それでも来るのか」
「どこへですか」
「離宮」
「行けるなら」
「即答するな」
「でも、もう巻き込まれてます」
シィルヴィアが眉を寄せる。
「毎日、一緒に食べてますから」
「食事は災害対策ではない」
「僕には、だいたい同じです」
「同じにするな」
今度は、笑いが声になった。
小さくて、すぐに消えた。
それでも、タクミは聞き逃さなかった。
「シィルヴィアが地下とつながってるなら調べる」
パンをちぎる。
「食べられないなら、食べられるようにする」
汁へ浸す。
「寒いなら、温かいものを作る」
「単純だな」
「難しいことはオルガさんたちが考えます」
「他人へ投げるな」
「分担です」
エスペルならそう言うだろうと思った。
シィルヴィアも同じことに気づいたのか、少しだけ息を吐く。
「勇者に影響された」
「エスペルさんです」
「……そうだった」
タクミは、向かいの椀へ目を向けた。
シィルヴィアが、もう一口、汁を飲んだ。
シィルヴィアの右手は冷たいまま。
地下の封印も直っていない。
各国の書状も、机の隅に積まれている。
何も解決していない。
それでも、二つの椀からは同じ湯気が上がっている。
「離宮へ行ったら」
タクミが言う。
「毎日、食事を運んでもいいですか」
「毎日?」
「朝昼晩は多いですか」
「多い」
「じゃあ二回」
「交渉するな」
「一回?」
「減らすな」
タクミは止まった。
シィルヴィアも止まった。
先に目を逸らしたのは、シィルヴィアだった。
「……検査の都合で時間は変わる」
「分かりました」
「来るなとは言っていない」
「はい」
声が少し大きくなった。
シィルヴィアがこちらを見る。
「嬉しそうだな」
「そうですか?」
「自覚がないなら、なお悪い」
タクミには何が悪いのか分からなかった。
最後の根菜を食べる。
向かいの椀も、半分より少なくなっている。
昼の会議で手つかずだったスープより、ずっと減っていた。
それで十分だった。
タクミは自分の椀を少し寄せる。
明日も向かいに座れるか。
聞くなら、今だった。
「明日も――」
扉が叩かれた。
リディの声がする。
「陛下。離宮への移動時刻について変更があります」
シィルヴィアが匙を置いた。
タクミの「明日も」は、最後まで言えなかった。
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