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氷血の皇帝は俺の料理を手放せない ~追放された料理人ですが、幼い日に救った少女が皇帝になっていて離してくれません~   作者: ジモンヌ
第7章 氷血を救う料理人と、最後の約束

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第101話 器を返せ

 薄焼き卵を切り分けたところで、卓上の水が揺れた。


 一度。


 タクミは包丁を止める。


 向かいでは、エスペルが自分の焼いた卵を一口で食べ、少しだけ眉を寄せた。塩が強かったらしく、そのまま水へ手を伸ばす。


 ミアが口元を隠した。


「笑っただろ」


「ちょっとだけ」


「次は薄くする」


 エスペルが真面目に言うと、食卓に小さな笑いが戻った。


 その途中だった。


 二度目の揺れで、杯の水が縁を越えた。


 食堂の窓が低く鳴る。


 床の下から、何か重いものを引きずったような振動が上がってきた。


 笑いが消える。


「皇城のさらに地下。古い封印区画です」


 扉が開いた。


 オルガが記録板を抱えて戻ってくる。息は乱れていない。けれど、いつもより歩幅が大きかった。


「地下の測定針が一斉に振れました」


 言い終えるより先に、床の奥で鐘を割ったような音が響いた。


 皿の上で卵が滑る。


 タクミは反射的に押さえた。


 先日の戦いで封じた黒い核とは違う。


 あの時は、外から押し寄せる魔力だった。


 今の音は、もっと近い。


 皇城の下。


 それより深いところから、何かが目を覚ましたようだった。


 耳で聞いたわけではない。


 それでも、言葉だけが頭の内側へ落ちてきた。


 ――固定器を回収。


「……今の、聞こえましたか」


 タクミが顔を上げる。


 誰もすぐには答えなかった。


 シィルヴィアの前にあった銀杯の表面へ、白い霜が走る。


 縁から底へ。


 そこから机へ落ちるはずだった水滴まで、丸い形のまま止まった。


「陛下」


 リディの手が剣へ移る。


「触れていない」


 シィルヴィアは右手を見た。


 指先が白い。


 命じてもいない氷が椅子の脚を囲み、床の石目に沿って広がっていく。


 エスペルが立ち上がる。


「離れた方がいいか?」


「待て」


 シィルヴィアの声は静かだった。


 けれど、氷は止まらない。


 彼女自身の命令より先に、何かへ応えるように伸びていく。


 また、声が落ちた。


 ――調律因子を確認。


 今度は、タクミの胸の奥が冷えた。


 視線を下げる。


 自分の手には何も起きていない。


 包丁も、皿も、卵もそのままだ。


「今の呼び方は、おそらくタクミを指しています」


 オルガが短く言った。


「僕を?」


「最初の判定は陛下の反応と同時でした。二つ目は、あなたの近くで測定針が動いています」


 記録板の細い針が、タクミの方へ傾いていた。


「調律って、何を」


「そこまでは分かりません」


 オルガは首を振る。


「名前ではなく、術式側の分類でしょう。意味を決めつけるのは危険です」


 タクミは頷いた。


 分からないものを、分かったことにしない。


 それでも一つだけ、嫌なことは分かる。


 固定器。


 調律因子。


 どちらにも、人の名前がなかった。


 椅子が引かれる。


 シィルヴィアがタクミの前へ立った。


 広がっていた氷が、その足元だけで一度止まる。


「全区画を避難させろ。地下封印路へは近づけるな」


「承知しました」


 リディがすぐに扉へ向かう。


「陛下もお下がりください」


 タクミが言う。


「呼ばれているのは私だ」


「だからです」


 シィルヴィアが振り返った。


 何か言いかけて、やめる。


 代わりに、タクミと地下へ続く廊下の間へ半歩ずれた。


 その位置だけで、何を考えているのかは分かった。


「僕も勝手に行きません」


「……ならいい」


「陛下もです」


 今度は返事がなかった。


 リディが扉のところで振り返る。


「お二人とも、今は避難が先です」


「はい」


「分かっている」


 二人の声が重なった。


 エスペルが少しだけ口元を緩めたが、その直後、厨房の方から食器の割れる音がした。


 悲鳴が続く。


 タクミは包丁を置いた。


「ガレスさん!」


 厨房へ駆け込むと、吊ってあった鍋が大きく揺れていた。


 棚から落ちた皿が床で割れ、若い料理人が腰を抜かしている。


 火口の上では、根菜の煮込みがまだ湯気を上げていた。


「火を落としてください。鍋はそのままで」


「持って逃げなくていいのか」


「避難した人が落ち着いたら、温かいものが要ります。蓋だけしておいてください」


 ガレスは一度だけタクミを見た。


「分かった。お前は?」


「食堂の人を連れて出ます」


「地下へ行くなよ」


「行きません」


「今は、だぞ」


 タクミは一拍遅れて頷いた。


 ガレスが大きく息を吐く。


「そこまで言わんと信用できん」


 パン籠を抱え、食堂へ戻る。


 廊下にはすでに衛兵が出ていた。


 セレスティアが幼い使用人の肩を抱き、ミアは散らばった記録板を胸へ集めている。


 エスペルは倒れかけた棚を持ち上げ、その下から二人を通した。


「走らなくていい! 壁側を空けろ!」


 勇者ではなくなっても、声の届く範囲は広い。


 誰か一人が全部をするのではない。


 運ぶ人。


 道を空ける人。


 怖がっている子どもの手を取る人。


 タクミは籠から小さなパンを一つ取り、泣きそうな子へ渡した。


「外へ出てから食べてください」


 子どもが両手で受け取る。


 それを見届けて、次の人へ道を譲った。


 最後尾で、シィルヴィアの足が止まった。


「どうしました」


 床を見る。


 銀の匙が落ちていた。


 誰かが踏んだのか、柄が少し曲がっている。


 その匙を包むように、透明な氷が広がっていた。


 シィルヴィアは触れていない。


 手も向けていない。


 ただ、見ているだけだった。


「陛下、離れてください」


 オルガが布越しに匙を拾う。


 氷ごと持ち上げても、匙は中で動かなかった。


 避難を終えた隣室へ運び、机の上へ置く。


 オルガが測定針を近づけた。


 針が触れる寸前で、光が止まる。


「冷やしただけじゃない?」


 ミアが小さく聞いた。


 オルガは答えず、もう一本の針を取り出した。


 タクミは氷の中の匙を見る。


 曲がったまま。


 壊れた形のまま。


 何も進まないように、そこだけ時間から切り離されたようだった。


 シィルヴィアの指先が、また白くなる。


 地下から、低い振動が一度だけ返ってきた。


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


今日の一皿はいかがでしたでしょうか。


少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。


また次の一皿で、お会いしましょう。

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