第101話 器を返せ
薄焼き卵を切り分けたところで、卓上の水が揺れた。
一度。
タクミは包丁を止める。
向かいでは、エスペルが自分の焼いた卵を一口で食べ、少しだけ眉を寄せた。塩が強かったらしく、そのまま水へ手を伸ばす。
ミアが口元を隠した。
「笑っただろ」
「ちょっとだけ」
「次は薄くする」
エスペルが真面目に言うと、食卓に小さな笑いが戻った。
その途中だった。
二度目の揺れで、杯の水が縁を越えた。
食堂の窓が低く鳴る。
床の下から、何か重いものを引きずったような振動が上がってきた。
笑いが消える。
「皇城のさらに地下。古い封印区画です」
扉が開いた。
オルガが記録板を抱えて戻ってくる。息は乱れていない。けれど、いつもより歩幅が大きかった。
「地下の測定針が一斉に振れました」
言い終えるより先に、床の奥で鐘を割ったような音が響いた。
皿の上で卵が滑る。
タクミは反射的に押さえた。
先日の戦いで封じた黒い核とは違う。
あの時は、外から押し寄せる魔力だった。
今の音は、もっと近い。
皇城の下。
それより深いところから、何かが目を覚ましたようだった。
耳で聞いたわけではない。
それでも、言葉だけが頭の内側へ落ちてきた。
――固定器を回収。
「……今の、聞こえましたか」
タクミが顔を上げる。
誰もすぐには答えなかった。
シィルヴィアの前にあった銀杯の表面へ、白い霜が走る。
縁から底へ。
そこから机へ落ちるはずだった水滴まで、丸い形のまま止まった。
「陛下」
リディの手が剣へ移る。
「触れていない」
シィルヴィアは右手を見た。
指先が白い。
命じてもいない氷が椅子の脚を囲み、床の石目に沿って広がっていく。
エスペルが立ち上がる。
「離れた方がいいか?」
「待て」
シィルヴィアの声は静かだった。
けれど、氷は止まらない。
彼女自身の命令より先に、何かへ応えるように伸びていく。
また、声が落ちた。
――調律因子を確認。
今度は、タクミの胸の奥が冷えた。
視線を下げる。
自分の手には何も起きていない。
包丁も、皿も、卵もそのままだ。
「今の呼び方は、おそらくタクミを指しています」
オルガが短く言った。
「僕を?」
「最初の判定は陛下の反応と同時でした。二つ目は、あなたの近くで測定針が動いています」
記録板の細い針が、タクミの方へ傾いていた。
「調律って、何を」
「そこまでは分かりません」
オルガは首を振る。
「名前ではなく、術式側の分類でしょう。意味を決めつけるのは危険です」
タクミは頷いた。
分からないものを、分かったことにしない。
それでも一つだけ、嫌なことは分かる。
固定器。
調律因子。
どちらにも、人の名前がなかった。
椅子が引かれる。
シィルヴィアがタクミの前へ立った。
広がっていた氷が、その足元だけで一度止まる。
「全区画を避難させろ。地下封印路へは近づけるな」
「承知しました」
リディがすぐに扉へ向かう。
「陛下もお下がりください」
タクミが言う。
「呼ばれているのは私だ」
「だからです」
シィルヴィアが振り返った。
何か言いかけて、やめる。
代わりに、タクミと地下へ続く廊下の間へ半歩ずれた。
その位置だけで、何を考えているのかは分かった。
「僕も勝手に行きません」
「……ならいい」
「陛下もです」
今度は返事がなかった。
リディが扉のところで振り返る。
「お二人とも、今は避難が先です」
「はい」
「分かっている」
二人の声が重なった。
エスペルが少しだけ口元を緩めたが、その直後、厨房の方から食器の割れる音がした。
悲鳴が続く。
タクミは包丁を置いた。
「ガレスさん!」
厨房へ駆け込むと、吊ってあった鍋が大きく揺れていた。
棚から落ちた皿が床で割れ、若い料理人が腰を抜かしている。
火口の上では、根菜の煮込みがまだ湯気を上げていた。
「火を落としてください。鍋はそのままで」
「持って逃げなくていいのか」
「避難した人が落ち着いたら、温かいものが要ります。蓋だけしておいてください」
ガレスは一度だけタクミを見た。
「分かった。お前は?」
「食堂の人を連れて出ます」
「地下へ行くなよ」
「行きません」
「今は、だぞ」
タクミは一拍遅れて頷いた。
ガレスが大きく息を吐く。
「そこまで言わんと信用できん」
パン籠を抱え、食堂へ戻る。
廊下にはすでに衛兵が出ていた。
セレスティアが幼い使用人の肩を抱き、ミアは散らばった記録板を胸へ集めている。
エスペルは倒れかけた棚を持ち上げ、その下から二人を通した。
「走らなくていい! 壁側を空けろ!」
勇者ではなくなっても、声の届く範囲は広い。
誰か一人が全部をするのではない。
運ぶ人。
道を空ける人。
怖がっている子どもの手を取る人。
タクミは籠から小さなパンを一つ取り、泣きそうな子へ渡した。
「外へ出てから食べてください」
子どもが両手で受け取る。
それを見届けて、次の人へ道を譲った。
最後尾で、シィルヴィアの足が止まった。
「どうしました」
床を見る。
銀の匙が落ちていた。
誰かが踏んだのか、柄が少し曲がっている。
その匙を包むように、透明な氷が広がっていた。
シィルヴィアは触れていない。
手も向けていない。
ただ、見ているだけだった。
「陛下、離れてください」
オルガが布越しに匙を拾う。
氷ごと持ち上げても、匙は中で動かなかった。
避難を終えた隣室へ運び、机の上へ置く。
オルガが測定針を近づけた。
針が触れる寸前で、光が止まる。
「冷やしただけじゃない?」
ミアが小さく聞いた。
オルガは答えず、もう一本の針を取り出した。
タクミは氷の中の匙を見る。
曲がったまま。
壊れた形のまま。
何も進まないように、そこだけ時間から切り離されたようだった。
シィルヴィアの指先が、また白くなる。
地下から、低い振動が一度だけ返ってきた。
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