背中に響く秒針(第1ステージ・第2問決着〜第3問)
「5……4……」
死の秒読みが鼓膜を叩く。公康は、30年前の安アパートの湿った空気を必死に手繰り寄せた。泣きじゃくる恵子。テレビから流れる無意味なニュース。早くこの場を立ち去りたいという焦燥。
(そうだ。あの時、俺は彼女を黙らせ、穏便に『処理』に同意させるために、自分の持ち物から名前をひねり出したんだ……!)
「1……!」
「……**『公希』**だ!!」
公康は喉を引き裂くように叫んだ。
「俺の名前、『公康』から一文字取って、公希……。将来、俺の跡を継げるような男にするからって、適当に……その場を凌ぐために言ったんだ!」
静寂。
次の瞬間、ピンポン、ピンポン、ピンポン! と、無機質な電子音が響き渡る。
「……正解よ。自分の名前を分けるなんて。あなたは愛からじゃなく、あの子を自分の『部品』として支配するためにその名前を付けたのね。その数日後には、あの子を消すための病院を探し始めたくせに」
恵子の顔から、もはや怒りさえ消え、底なしの虚無が広がっていく。公康は解答席に突っ伏し、激しく呼吸を乱した。
「さあ、いよいよ第1ステージ、運命の最終問題です。恵子様、準備は?」
司会者の冷たい声に、恵子は震える手で最後のカードを捲った。その目は、もはや過去を慈しむ女のものではなく、公康を殺して「10兆円」という巨大な肉に食らいつこうとする、餓鬼のそれだった。
「第3問。……名前をつけて私を油断させた直後、あなたは『アイスを買ってくる』と言って部屋を出ようとしたわね。それが、あなたが私の前から消える最後の一瞬だった。……さて、ドアを閉める直前、あなたが私に見せた『最後のアクション』は何?」
公康の心臓が、冷たい氷の杭で打たれたように跳ねた。
(最後のアクション……? 手を振ったか? 無理に笑ったか?)
いや、そんな殊勝なことを自分がするはずがない。
公康はあの時、恵子の視界から消えることだけを願っていた。アパートの下には、本命の婚約者が運転する車が待っていたのだ。
「10、9、8……」
「待て。……思い出した。俺はあの時、彼女の顔なんて見ていなかった。見ていたのは……」
「5、4……」
「……**『腕時計の文字盤を叩いた』**だ!!」
公康の声は、感情を失った機械のように響いた。
「『10分で戻る』と嘘をつきながら、俺は自分の左手の時計を指先でトントンと叩いた。……次のデートに遅れないよう、自分自身に言い聞かせるために。君には『時間を守る』というポーズに見えただろうが、あれは俺にとっての『逃走開始の合図』だったんだ!」
静寂がスタジオを支配する。
次の瞬間、ピンポン、ピンポン、ピンポン!
「……ッ!!」
恵子の顔が、怒りと驚愕で引きつった。彼女は今、公康が生き残ったこと……つまり、自分が「10兆円」を手にする機会を永遠に失ったことを悟ったのだ。
「なんで……なんで正解するのよ! 忘れてなさいよ! あなたみたいなクズ、さっさと間違えて死ねばよかったのよ!!」
恵子は解答席を拳で叩き、形相を変えて公康を罵倒した。先ほどまでの「悲劇のヒロイン」の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには金に執着する醜い欲の塊がいた。
「私の30年なんてどうでもいいわ! 10兆円よ! 10兆円あれば、あの子のことだって、あなたの顔だって、綺麗さっぱり忘れて贅沢三昧できたのに!! 返しなさいよ! 私の10兆円を返しなさいよおぉぉ!!」
狂ったように叫ぶ恵子。だが、無情にも彼女の足元から、不吉な駆動音が響く。
「え……? ちょっと、何よ。お金は……お金はどうなるのよ!?」
『第1ステージ終了。佐藤公康氏、3問連続正解。……挑戦は継続されます。残り、27問』
ナレーションが流れた瞬間、恵子の足元の床が、音もなく消失した。
「嘘……嘘よ! 私は、私は10兆円を……いやあああああああああ!!」
10兆円への執着にまみれた絶叫が、奈落の底へと吸い込まれていく。
数秒後。ドォォォン!! という、重量物がコンクリートに叩きつけられる生々しい衝撃音が響き渡った。
公康は目を見開き、解答席の縁を指が白くなるほど強く握りしめた。
「恵子」と名前を叫ぶ気など、微塵も起きなかった。彼の脳を支配したのは、かつての恋人を失った悲哀ではない。目の前で人間が破裂したという強烈な物理的ショックによる「吐き気」と――自分が死なずに済んだという、おぞましいほどの「安堵」だった。
公康は床に胃液をぶちまけ、激しく咳き込んだ。
『お見事です、公康氏。あなたは自らの正確な記憶で、一人目の出題者を排除しました。……10兆円への階段を、一つ上ったのです』
司会者の無機質な声がスタジオに響く。
公康は口元を手の甲で拭いながら、荒い息を吐いた。
(そうだ……俺は悪くない。あいつが勝手に落ちたんだ。俺は、俺が生き残るために正解を言っただけだ……!)
胃の痙攣が収まるにつれ、公康の瞳の奥に、暗く冷たい光が宿り始める。
底で肉の塊になったであろう30年前の女と、自分の命。そして、その先にある10兆円という途方もない金。天秤にかけるまでもない。自分は正しい選択をしたのだ。
「……次は誰だ。さっさと出せ」
公康は首のカラーの重みを感じながら、低く掠れた声で司会者を睨みつけた。その顔はすでに、被害者ではなく「生き残るためなら何度でも女を殺す解答者」の顔になっていた。
カツカツ、カツカツ。
公康の言葉を待っていたかのように、鋭いヒールの音がスタジオの奥から近づいてきた。




