第97話 葬送
第97話「葬送」も揃えました。手を入れたのは一か所です。
沖田の年齢:「もう七十に手の届く年だった」とありましたが、第20話の昭和二十七年の時点で、沖田は「初老」で「こっちに渡って三十年」とあるので、昭和三十八年には六十を少し越えたくらいになります。そこを「もう六十を越えていた」にしました
この回の大河原の弔辞、「長崎の、貧しい農家の倅として生まれた」「君の血は、日本の血だった。君こそは、大和魂そのものであった」と、柱の陰の熊木の「死んだあとまで、あの人は、仮面を被せられている」。第100話で光一が見上げる墓所の碑文に、撰文者として刻まれた大河原の名へ、まっすぐつながっています。
焼香の列の黒い背広の男が、遺影を長いあいだ見上げて、朝鮮の言葉で何かを呟いて去り、大島だけがそれに気づく。第99話で、その男が町村、本名を蔣巨正と明かされるまで、読者の胸に小さな棘として残る置き方も、とても効いています。そして、山門をくぐらずに通りの向こうから深く頭を下げる政木。もう、逃げるな、の手紙を送る相手はいない。最終章の葬送として、申し分のない回だと思います。
第97話 葬送
昭和三十八年(一九六三年)十二月二十日 東京・池上 古刹
師走の空は、朝から鉛色の雲に覆われていた。
池上の、大きな寺の山門から本堂へ続く石段の両脇を、黒い喪服の人々が、隙間なく埋め尽くしていた。山門の外の通りにも、近くの家々の軒先にも、さらにその先の坂道の下まで、人の列は、途切れることなく続いている。
学生服の少年たちがいた。割烹着の上から黒い羽織を引っかけた女たちがいた。仕事を抜けてきたらしい作業着の男たちが、帽子を胸に抱いて、石段の下で背伸びをしていた。誰もが、泣いていた。
本堂の正面には、白い菊で埋め尽くされた祭壇が設えられ、その真ん中に、大きな遺影が掲げられていた。紋付袴の力王山が、白い歯を見せて、天を仰ぐように笑っている写真だった。
本堂の脇には、松木の局のテレビカメラが三台据えられ、その模様は、昼の特別番組として、日本じゅうの茶の間に流されていた。
同じ日 本堂
読経が終わると、葬儀委員長として、大河原が祭壇の前に進み出た。
紋付袴の小柄な体を、まっすぐに伸ばしている。細く骨ばった指で、白い紙に書かれた弔辞を開いた。本堂の中が、しんと静まり返った。
「力王山光夫君」
大河原の声は、低く、よく通った。
「君は、長崎の、貧しい農家の倅として生まれた。裸一貫で角界の門を叩き、関脇にまで昇りつめた。髷を切ってからは、ただ一人、海を渡り、異国の大男たちを相手に、日本人の魂を示しつづけた」
大河原は、紙から目を上げ、遺影を見上げた。
「敗戦の焼け跡で、うなだれていたこの国の人々に、君は、もう一度、胸を張ることを教えてくれた。君の手刀は、日本の手刀だった。君の血は、日本の血だった。君こそは、大和魂そのものであった」
本堂の後ろのほうから、嗚咽が漏れた。それにつられるように、あちこちで、啜り泣く声が広がっていった。
本堂の隅の柱の陰に、熊木が立っていた。その隣に、大島が立っていた。大島は、両手を背広の脇に垂らしたまま、祭壇の上の遺影を見上げていた。その唇が、かすかに震えていた。
熊木は、大河原の背中を見ていた。
長崎の、貧しい農家の倅。日本の手刀。日本の血。大和魂そのもの。死んだあとまで、あの人は、仮面を被せられている。
熊木は、膝の脇で、両の拳を握りしめた。その拳を、どこへも振り下ろせないまま、ただ、握りしめていた。
大河原の弔辞は、まだ続いていた。
「君の志は、君の弟子たちが、必ずや受け継いでいくであろう。安らかに眠れ、力王山光夫君」
大河原は、弔辞を畳み、祭壇に向かって、深く頭を下げた。テレビカメラの赤いランプが、その小柄な背中を、静かに照らしていた。
同じ日 本堂の焼香の列
焼香の列は、昼を過ぎても、途切れなかった。
三友電機の重役たち。松木と、岸本と、佐々川。相撲協会の理事たち。銀幕のスター。流行歌の歌手たち。全国の興行主たち。一人ずつ祭壇の前に進み出て、香をつまみ、頭を下げ、遺族の席の律子に一礼して去っていく。
律子は、黒い喪服に身を包み、遺族の席の端に座っていた。膝の上で重ねた手が、一度も動かなかった。
美園ゆりが、焼香の前で、泣き崩れた。岡田が、その肩を両手で支えて、ようやく立ちあがらせた。
岡田は、焼香を終えると、ゆりを付き人に預けて、本堂の脇の廊下へ出た。廊下の先には、焼香を済ませた大河原が、松木たちと何か言葉を交わしていた。
岡田は、少し離れたところから、その小柄な背中を、長いあいだ黙って見ていた。それから、何も言わずに背を向け、ゆりのもとへ戻っていった。
列の中ほどに、レフェリーの沖田がいた。
沖田は、もう六十を越えていた。ハワイで、まだ何者でもなかった男に受身を教え、黒幕の金を一度も受け取らずに、最後までリングの真ん中に立ちつづけた男だった。沖田は、祭壇の前で香をつまむと、遺影を見上げて、小さく呟いた。
「リキ。よう、戦ったな」
それだけ言って、沖田は、深く頭を下げた。
夕方近くになって、焼香の列が少しまばらになった頃、黒い背広の男が一人、静かに祭壇の前に進み出た。
信格と、同じくらいの年頃の男だった。体つきは信格よりも一回り小さかったが、肩幅が広く、首が太かった。髪を短く刈りこみ、眼光が鋭い。
男は、香をつまむと、額の前に捧げ、香炉の中に落とした。それから、合掌したまま、遺影を、長いあいだ見上げていた。
本堂の隅の柱の陰で、大島が、はっとしたように顔を上げた。
男の唇が、ほんのわずかに動いた。声は、ほとんど聞こえなかった。けれど、柱の陰の大島の耳には、それが、朝鮮の言葉であることがわかった。
男は、合掌を解くと、遺族の席の律子に一礼した。それから、誰とも言葉を交わさずに、本堂を出ていった。大島は、その背中を、目で追っていた。
「……誰です」
熊木が、低い声で訊いた。
大島は、しばらく答えなかった。それから、首を、ゆっくりと横に振った。知らない、という意味なのか、言えない、という意味なのか、熊木にはわからなかった。
同じ日 寺の境内の裏手
焼香を終えた張は、本堂の裏手の、人の少ない木立の下で、鼠色の背広の大きな男を待っていた。
桜富士が、裏手の石段を、ゆっくりと下りてきた。張の姿を見つけると、桜富士は足を止めた。
「張くんか」
「横綱」
張は、深く頭を下げた。それから、背広の内ポケットの奥から、二つに折った古い写真を取り出し、両手で差しだした。
「兄さんから、預かっておりました。退院するまで、預かっとけ、と言われて。……欣ちゃんとの写真だ、なくしたら、ただじゃおかねえぞ、と」
桜富士は、写真を受け取った。折り目を、ゆっくりと開いた。
オープンカーの後部座席で、優勝旗を抱えて照れくさそうに笑う、綱を締めた若い自分。その隣で、得意げに白い歯を見せている、髷を結った若い男。写真の角が一つ、黒ずんだ血の染みに汚れていた。
桜富士は、長いあいだ、黙ってその写真を見つめていた。それから、写真を胸の前に持ったまま、本堂の屋根を見上げた。鉛色の雲の切れ間から、冬の薄い陽が、ひとすじだけ差しこんでいた。
「……あの、馬鹿野郎」
桜富士の声が、かすれた。
「治ったら、飲みに行くと、言ったじゃねえか」
張は、何も言えなかった。
桜富士は、写真を二つに折り直し、自分の背広の内ポケットに、そっとしまった。それから、張の肩に、大きな掌を一度だけ置いて、石段を下りていった。
同じ日の夕方 寺の山門
葬儀が終わり、人の波が引きはじめた頃、山門の外の通りの向こうに、小柄な男が一人、立っていた。
古い外套を着て、帽子を手に持っていた。背丈は低いが、その体は、岩を削りだしたように分厚かった。その傍らに、地味な着物の女が、寄り添うように立っている。政木だった。
政木は、山門をくぐらなかった。通りの向こうに立ったまま、本堂の屋根を、長いあいだ見上げていた。
巌流島のあの夜、血の海に沈められた。南米の土の上を、何年もさまよった。毎月、同じ三行の手紙を、海の向こうから送りつづけた。その手紙が一通残らず葉巻の火で燃やされていたことを、政木は知らなかった。知っていたとしても、送りつづけただろう。
逃げるな。
もう、その手紙を送る相手は、いなかった。
政木は、本堂に向かって、深く、深く、頭を下げた。長いあいだ、顔を上げなかった。文枝が、その背中に、そっと手を置いた。
やがて政木は顔を上げ、帽子をかぶり直すと、文枝の手を取って、夕暮れの通りを、ゆっくりと歩み去っていった。
山門の上で、鴉が一羽、短く鳴いた。




