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第96話 足音

 昭和三十八年(一九六三年)十二月十五日 夜 東京・赤坂 病院の特別室


二度目の手術から戻った信格の寝台を、夜の八時を過ぎる頃には、大勢の人間が取り囲んでいた。


白衣の医師たち。三友電機や松木の局から駆けつけた、上等な背広の男たち。そして、沢登と、芳村と、大島と、熊木。廊下で待たされていた弟子たちも、院長がもう止めなかったので、皆、部屋の中へ入ってきていた。


「先生! 先生!」


「力王山先生! しっかりしてください!」


沢登が、寝台の縁にすがりついて叫んでいた。いつもの間延びした声は、どこにもなかった。


「日本の力王山が、こんなかすり傷で死ぬわけがねえでしょう!」


芳村は、寝台の足元で、額の古い傷跡を押さえたまま、声を殺して泣いていた。大島は、寝台の反対側に膝をつき、朝鮮の言葉で、何かを何度も呟いていた。律子は、枕元の椅子に座り、夫の右手を両手で包みこんでいた。


熊木は、律子の後ろに立っていた。泣いてはいなかった。泣き方が、わからなかった。


扉の向こうの廊下では、どこから嗅ぎつけたのか、新聞記者たちが看護婦と揉みあう声が、絶え間なく聞こえていた。ときおり、フラッシュの白い光が、扉の磨り硝子を青白く染めた。


部屋の隅の、窓際の壁に、郷馬がもたれて立っていた。


夕方に駆けつけてから、郷馬は一度も寝台のそばへは寄らなかった。泣いてもいなかった。ただ、ときおり、背広の袖を少しだけまくり、左の手首の腕時計の針に、静かに目を落としていた。


信格の目が、薄く開いた。


霞んだ目が、枕元の顔を、一つずつ、ゆっくりとなぞっていった。その目が、部屋の隅の郷馬のところで、わずかに止まったように、熊木には見えた。


信格の唇が、かすかに動いた。声には、ならなかった。けれど、その口元が、ほんの少しだけ、歪んだ。ふっ、と笑うときの、あの形に。


窓の外で、雨が降りだした。


冷たい師走の雨だった。最初は、硝子をかすかに叩くほどだった雨音が、やがて少しずつ大きくなり、部屋の中のすすり泣きや、廊下の怒号を、静かに包みこんでいった。


同じ夜 九時半 病院の特別室


九時半を回った頃、院長が、寝台の足元で、静かに口を開いた。


「皆さん。どうか、廊下でお待ちください。ここからは、奥様だけに、お付き添いいただきます」


誰も、すぐには動かなかった。


院長は、もう一度、同じことを言った。今度は、看護婦たちが、男たちの肩にそっと手を添えて、扉のほうへ促していった。背広の男たちが出ていき、沢登が芳村に抱えられるようにして出ていき、大島が、最後まで寝台の脇で頭を下げてから、出ていった。


郷馬も、腕時計から目を上げ、黙って扉をくぐった。


熊木は、扉の前で、一度だけ振り返った。寝台の上の大きな体と、その手を握りしめている律子の小さな背中が見えた。


扉が、閉まった。


白い部屋の中には、雨の音と、点滴の雫の音と、律子の啜り泣く声だけが残った。


寝台の上の信格は、目を閉じたまま、浅く、早い息を繰り返していた。胸が上下するたびに、喉の奥で、乾いた音が鳴った。


律子は、夫の右手を、両手で包みこんでいた。その手には、まだ、温もりが残っていた。律子は、その温もりを手放すまいとするように、何度も、何度も、指先で夫の手の甲を撫でていた。


「あなた」


律子が、小さな声で呼んだ。


「アメリカへ、連れていってくださるって、約束してくださったでしょう。ハワイにも、寄ってくださるって。海が、きれいだって」


信格の瞼が、かすかに動いた。けれど、目は、開かなかった。


同じ夜 信格の夢


雨の音が、遠くで、トタン屋根を叩いていた。


朝鮮人街の路地の奥の、あの小さな食堂の、雨漏りのする屋根だった。兄弟子たちにちゃんこを残してもらえずに、腹を空かせてさまよいこんだ夜、オモニと呼んでいた女主人が、黙って熱い汁を出してくれた。涙をこらえて、一滴残らず啜った。


その雨の音が、いつのまにか、遠ざかっていった。


白かった。


どこまでも白い場所に、信格は立っていた。足元は、凍った川だった。端から端まで、白く、固く凍っている。冷たい風が、頬を打った。北の山から吹き下ろしてくる、骨まで凍える風だった。


向こう岸が、見えた。


向こう岸には、低い土塀の家が並んでいた。煙突から、白い煙が細く立ちのぼっている。その家の前に、誰かが立っていた。


母だった。


顔は、よく見えなかった。最後に見たのは、もう何十年も前のことだった。けれど、その立ち姿は、間違いなく母だった。母は、両手で何かを抱えていた。湯気の立つ、大きな鉢だった。牛の骨を煮出した汁の匂いが、凍った川の上を、こちらまで漂ってきた。


母の隣に、もう一人、女が立っていた。秀貞だった。灰色の着物に、くたびれた羽織を重ねている。秀貞は、信格のほうを見て、少しだけ笑った。泣いているようにも見える、あの笑い方だった。


その二人のあいだに、作業着を着た若い娘が、一人立っていた。頬はこけ、髪は短く刈られていた。白い壁の前に立たされて、カメラを睨みつけていた、あの怒ったような目をした娘だった。娘は、凍った川のこちら側に立つ信格を、まっすぐに見ていた。


信格は、向こう岸へ向かって、走りだそうとした。足が、動かなかった。


見下ろすと、両の足首に、白い糸が結びつけられていた。糸は、凍った川の上を、どこまでも後ろへ伸びていた。振り返ると、白い闇の中に、大勢の人影が並んでいた。大河原がいた。松木がいた。岸本がいた。佐々川がいた。その後ろに、顔の見えない、痩せた男の影があった。


糸が、ぴんと張った。


信格は、もがいた。もがけばもがくほど、糸は足首に食いこんだ。向こう岸の三人の姿が、白い霧の中に、少しずつ遠ざかっていく。母の抱えた鉢から立ちのぼる湯気が、細く、薄くなっていく。


そのとき、どこか遠くから、声が聞こえた。


力王。


桜富士の声だった。


治ったら、飲みに行くか。浅草の、あの店でな。


信格は、白い闇の中を見回した。桜富士の姿は、どこにも見えなかった。けれど、その声だけが、凍った川の上に、穏やかに響いていた。


どこの生まれだろうが、土俵の上じゃ関係ねえ。強い奴が強い。それだけだ。


信格の喉の奥から、何かがせりあがってきた。


欣ちゃん。俺は。俺は、本当は。


言葉は、やはり、出てこなかった。


同じ夜 九時四十分過ぎ 病院の特別室


院長が、計器の針から目を上げた。それから、律子のほうを見て、低く言った。


「奥様。お弟子さんを、お呼びして差しあげてください。……どうか、お早く」


律子は、はっとして顔を上げた。院長の顔を見て、それが何を意味するのかを悟ったように、唇を震わせた。律子は、夫の手を一度だけ強く握りしめてから、椅子を立ち、扉を開けて廊下へ顔を出した。


「熊木さん。郷馬さん」


廊下の長椅子のあたりで、二つの大きな影が、立ちあがる気配がした。


同じ夜 病院の廊下


熊木と郷馬は、並んで、特別室の扉へ向かって歩きだした。


一人は、二メートルを超える体で、長い脚を大きく踏みだす、ゆったりとした歩き方。もう一人は、太い首に長い顎の、床を踏みしめるような、重く、確かな歩き方。


歩きながら、郷馬は、背広の袖を少しだけまくり、左の手首の腕時計に目を落とした。銀色の針が、九時四十八分を指していた。


白い廊下に、二人の足音が、雨音に混じって響いた。


同じ夜 病院の特別室


信格の耳に、その足音が、届いた。


凍った川の上で、白い糸にもがいていた信格の耳に、遠く、白い闇の向こうから、二つの足音が近づいてくるのが聞こえた。信格には、それが誰の足音か、すぐにわかった。


二十年以上、リングの上で、無数の男たちの足音を聞いてきた。花道を歩いてくる足音で、相手の体の重さも、脚の長さも、腹の据わり方も、わかった。


一つは、長い脚を、ゆったりと、大きく踏みだす足音。眠たげな目で、何もかもを知っていて、何も言わずに、自分を値踏みしてきた男の足音だった。


もう一つは、床を踏みしめるような、重く、確かな足音。夜の海に突き落としても、泳いで戻ってきた。叩きつけても、叩きつけても、起きあがってきた。後頭部を殴りつけても、ハンドルを握る手を、一度も離さなかった男の足音だった。


二つの足音が、白い廊下を、扉に向かって、まっすぐに近づいてくる。


信格の瞼が、かすかに震えた。乾いた唇の端が、ほんの少しだけ、持ちあがった。


「……ふっ」


扉の脇に戻っていた律子が、はっとして、寝台のほうを振り返った。院長が、計器の針から目を上げた。


信格の唇が、また、わずかに動いた。かすれた、ほとんど息だけの声だった。


「……これからは……お前らの、時代だ……」


扉の外で、足音が、止まった。


扉が、開いた。


郷馬が、身をかがめて、部屋の中へ入ってきた。その後ろから、熊木が入ってきた。


二人が寝台の脇にたどり着いたとき、信格の胸は、もう、上下していなかった。


計器の針が、ことり、と、止まった。


同じ夜 病院の特別室


院長が、信格の手首を取り、それから、聴診器を胸に当てた。長いあいだ、そうしていた。やがて院長は、聴診器を外し、壁の時計を見上げた。


「……午後、九時、五十分」


院長は、低く言った。


「ご臨終で、ございます」


律子の喉から、声にならない声が漏れた。律子は、寝台に駆け寄り、夫の胸に顔を伏せて、肩を震わせて泣きはじめた。


郷馬は、寝台の脇に立ったまま、信格の顔を見下ろしていた。それから、ゆっくりと、左の手首の腕時計に目をやった。銀色の針は、九時五十分を指していた。郷馬は、何も言わなかった。


熊木は、寝台の足元に、膝をついていた。信格の顔を、見上げていた。


頬は削げ落ち、唇は紫色に変わっていた。それでも、その口の端は、ほんのわずかに持ちあがったままだった。いつもの、あの、ふっ、と笑うときの形のままで、止まっていた。


いつか、ぶっ殺す。


ブラジルの農園からこの国に戻ってきた日に、そう決めた。夜の海で、千回のスクワットの床の上で、三十足の靴の前で、何度も何度も、胸の中で繰り返してきた。


その男が、もう、いなかった。殺す前に、勝手に、逝ってしまった。


熊木は、両の拳を、膝の上で握りしめた。握りしめた拳の中に、行き場を失った何かが、熱く、重く、詰まっていた。それを、どこへ持っていけばいいのか、熊木には、わからなかった。


開いたままの扉の外の廊下から、沢登の嗚咽が聞こえてきた。芳村が、先生、と呼ぶ声が聞こえた。大島が、朝鮮の言葉で、何かを、何度も繰り返していた。


天道の声は、聞こえなかった。


窓の外では、雨が、硝子を叩きつづけていた。


同じ夜更け 病院 院長室


院長は、手術着を着替えもせずに、机の上の電話の受話器を取った。


この一週間で、三度目だった。世田谷の、あの屋敷の番号を回す指は、もう、震えていなかった。


呼び出し音が二度鳴っただけで、受話器の向こうに、低い声が出た。眠ってはいなかったようだった。


「わしだ」


「赤坂の、院長でございます」


院長は、雨に濡れた窓の向こうの、赤坂の街の灯りに目をやった。


「先ほど、午後九時五十分に、力王山さんが、お亡くなりになりました」


受話器の向こうは、しばらく、何も言わなかった。


「……そうか」


それから、少しの間を置いて、大河原は言った。


「わかった」


院長は、受話器を握りしめたまま、次の言葉を待った。


「新聞は、明日の朝から騒ぐぞ。手術のやり方がどうだった、薬がどうだった、と、あれこれ嗅ぎまわる者も出てくるだろう」


大河原の声は、少しも揺れていなかった。


「医療の手落ちだなどと騒がれんように、手は打っておく。あんたは、何も心配せんでいい。いつもどおり、黙って、患者を診ておればいい」


「……はい」


「ご苦労だったな」


電話は、そこで切れた。


院長は、受話器を置いた。それから、銀縁の眼鏡を外し、机の上に置いて、両の掌で顔を覆った。長いあいだ、院長はそうしていた。


同じ夜更け 病院のナースステーション


三上が、机の上に、入院患者の記録の綴りを広げていた。


震える手で鉛筆を握り、一番下の欄に、決められたとおりの言葉を書きこんでいく。


『十二月十五日 午後九時五十分 死亡』


それから、綴りの表紙に記された患者の名前を、もう一度、確かめた。


対馬光夫、と書かれていた。


四年前の秋、薬局の小窓の前で、自分の手首を掴んだ男の名前だった。五日前の夜、唇を湿らせた自分に、すまねえな、と言った男の名前だった。三上は、その名前を、しばらく見つめていた。


それから、綴りを閉じ、棚の上に戻した。


窓の外では、師走の冷たい雨が、赤坂の街の灯りを、いつまでも濡らしつづけていた。



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