第95話 急変
昭和三十八年(一九六三年)十二月十五日 夜明け前 東京・赤坂 病院の特別室
腹の中で、何かが、破れた気がした。
焼けた石が転がっているのではなかった。腹の奥の一番深いところで、張りつめていた何かが、ぷつりと裂けて、そこから、煮えたぎった湯のようなものが、腹じゅうに流れだしていく。そんな感じだった。
信格は、寝台の上で、体を海老のように丸めた。
声が、出なかった。喉の奥から、獣のような唸りが漏れるだけだった。額から噴きだした汗が、枕を濡らし、敷布を濡らした。腹に手を当てると、板のように硬く張りつめていた。
呼び鈴を押した。遠くで、ベルが鳴った。
今度は、足音が来た。夜勤の看護婦が扉を開け、寝台の上の信格の顔を一目見るなり、真っ青になって廊下へ駆け戻っていった。院長先生を、という叫び声が、白い廊下に響いた。
同じ朝 病院の特別室
院長が部屋に入ってきたのは、それから半時間ほどあとのことだった。
院長は、寝台の脇に立つと、信格の腹に、そっと掌を当てた。それから、少しだけ指先に力をこめた。信格の口から、押し殺した叫び声が漏れた。
院長は、手を離した。銀縁の眼鏡の奥の目が、一瞬だけ、閉じられた。
「腹膜炎を、起こしておられます」
院長は、駆けつけてきた律子に向かって、静かに言った。
「縫いあわせたところから、腸の中のものが、お腹の中へ漏れだしております。もう一度、開いて、洗い流さなければなりません。今日の午後に、手術をいたします」
律子は、両手で口元を覆った。
「先生は……主人は、助かるのでしょうか」
院長は、すぐには答えなかった。
「……できる限りのことは、いたします」
それだけ言って、院長は、看護婦たちに手術の支度を言いつけ、部屋を出ていった。
信格は、寝台の上で体を丸めたまま、その背中を、霞んだ目で見送っていた。
同じ朝 病院 院長室
院長は、自分の部屋に戻ると、扉を閉め、机の上の電話の受話器を取った。
ダイヤルを回す指が、かすかに震えていた。世田谷の、あの屋敷の番号だった。
呼び出し音が三度鳴って、受話器の向こうで、女中の声がした。しばらく待たされたあとで、低い、落ち着いた声に代わった。
「わしだ」
「赤坂の、院長でございます」
院長は、受話器を握りしめた。
「力王山さんが、今朝方、腹膜炎を起こされました。縫いあわせたところが、ほつれまして。重篤でございます。今日の午後に、もう一度、お腹を開きます」
受話器の向こうが、少しのあいだ、静まり返った。
「そうか」
大河原の声は、少しも揺れていなかった。
「……四日前の晩に、葡萄酒と肉を、たらふく腹に詰めこんだそうだな」
院長は、答えなかった。答えずとも、相手は、もう知っていた。
「自業自得だな」
大河原は、そう言った。それから、少しの間を置いて、ゆっくりと続けた。
「手は、尽くしてやれ」
「……はい」
「ダメなときは、仕方あるまい」
電話は、そこで切れた。
院長は、受話器を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。それから、静かに受話器を置き、手術着に着替えるために、立ちあがった。
同じ日の昼過ぎ 病院の手術室の前の廊下
面会を禁じられていた廊下に、昼前から、人が集まりはじめていた。
律子が、長椅子の端に、膝の上で両手を握りしめて座っている。その隣に、熊木が、背筋を伸ばして立っていた。病院の者たちも、もう、熊木を追いだそうとはしなかった。
少し離れた窓際に、沢登と芳村が並んでいた。沢登は、いつもの間延びした笑みをどこかへ置き忘れたように、壁にもたれて天井を見上げている。芳村は、額の古い傷跡を指先でなぞりながら、手術室の扉を見つめていた。
大島は、廊下の一番奥の、階段の踊り場の陰に、一人で立っていた。誰とも口をきかず、両手を背広の脇に垂らしたまま、身じろぎもしなかった。
天道は、皆から少し離れたところで、煙草に火をつけようとして、看護婦に咎められ、黙って煙草を箱に戻した。
午後の一時に、担架に乗せられた信格が、廊下を運ばれてきた。律子が、長椅子から立ちあがって、駆け寄った。担架の上の信格は、熱に潤んだ目を、薄く開いていた。
「あなた」
律子の声に、信格の唇が、わずかに動いた。
「……かすり傷だ」
かすれた、ほとんど聞き取れないほどの声だった。
「すぐ、出てくる」
担架は、律子の手を離れて、手術室の扉の向こうへ運ばれていった。重い扉が閉まり、その上の赤いランプが、灯った。
同じ日の午後 病院の手術室
白い光が、真上から降ってきていた。
麻酔の医師が、信格の口元に覆いを当てる前に、何かを言った。数を数えてください、と言ったのかもしれなかった。信格は、数えなかった。白い光の向こうに、凍った川が見えた気がした。
それから、何もわからなくなった。
院長の手が、縫いあわせたばかりの腹を、もう一度、切り開いた。
腹の中は、ひどい有様だった。縫い目の一つがほつれ、そこから漏れだしたものが、腹の奥じゅうに広がっていた。院長は、黙々と手を動かした。看護婦たちが、温めた液を何度も腹の中に注ぎ、それを吸いだしていく。
一時間が過ぎた頃、麻酔の医師が、低い声で言った。
「院長。血圧が、下がっております」
院長は、手を止めなかった。
「上が、六十を切りました。五十……」
手術室の空気が、ぴんと張りつめた。
「昇圧剤を」
麻酔の医師が、看護婦に向かって言った。若い看護婦が一人、弾かれたように手術室を飛びだしていった。三上だった。
廊下の向こうの、薬品の棚のある部屋まで、三上は駆けた。棚の扉を開けて、いつもその薬が並んでいるはずの段に、手を伸ばした。
そこは、空っぽだった。
三上は、棚の脇に吊るされた帳簿をめくった。その薬の欄だけ、数字が書かれていなかった。空欄の端に、小さく、鉛筆で、補充手配中、とだけ記されている。
三上の指が、その鉛筆の字の上で、止まった。
四年前から、何度上に書類を上げても埋まらなかった、あの欄だった。補充手配中、という薄い鉛筆の字は、四年前に初めてこの帳簿を見たときと、少しも変わっていなかった。誰が書いたのかも、いつ書かれたのかも、誰も知らなかった。誰も、訊こうとしなかった。
三上は、隣の棚を開け、その隣の棚を開けた。どこにも、なかった。
手術室に駆け戻った三上の顔を見て、麻酔の医師が、息を呑んだ。
「……ありません」
三上の声は、震えていた。
「棚に、一本も、ありません」
手術室の中が、凍りついたように静まり返った。院長の手が、一瞬だけ、止まった。
それから院長は、顔を上げずに、鋭く言った。
「すぐに、赤十字に電話しろ。近くの病院にもだ。どこでもいい、あるところから、車で運ばせろ」
看護婦が二人、手術室を飛びだしていった。廊下の向こうで、電話のダイヤルを回す音と、叫ぶような声とが、入り乱れて聞こえてきた。
「それまでは、点滴を早めて、できる限りのことを」
院長は、また黙って手を動かしはじめた。切り開いた腹の中に両手を差し入れたまま、銀縁の眼鏡の奥の目を、じっと手元に落としていた。その額に、汗が、細かく浮かんでいた。
麻酔の医師が、計器を見つめながら、数字を読みあげつづけた。四十八。四十五。四十六。数字は、少しずつ、少しずつ、下がっていった。
薬を積んだ車が病院の玄関に着いたのは、それから四十分あまりが過ぎた頃だった。
同じ日の夕方 病院の手術室の前の廊下
手術室の扉の上の赤いランプが消えたのは、夕方の五時を回った頃だった。
扉が開き、担架が運びだされてきた。廊下の者たちが、一斉に駆け寄った。
担架の上の信格は、目を閉じていた。顔は、紙のように白かった。唇は、血の気を失って、うっすらと紫に変わっていた。胸だけが、浅く、早く、上下していた。
「あなた」
律子が、担架の脇にすがりついた。
「先生」
熊木が、担架の反対側に回り、信格の大きな手を握った。まだ、温かかった。
あの夜、キャデラックの後部座席から自分の後頭部に落ちてきた拳と、同じ手だった。だろう、欣ちゃん、と言いながら、高々とグラスを掲げた手だった。その手に、まだ、かすかな温もりが残っていた。その温もりが、熊木の掌の中で、少しずつ、少しずつ、遠ざかっていくような気がした。
「先生、力王山先生」
沢登が、芳村が、担架を取り囲んで、口々にその名を呼んだ。
廊下の奥の踊り場から、大島が、ふらふらと歩み寄ってきた。担架の足元に膝をつき、朝鮮の言葉で、何かを短く呼んだ。兄さん、と呼んだのだということは、熊木にだけわかった。
天道だけが、少し離れたところに立ったまま、担架の上の顔を見下ろしていた。口の端には、もう、笑みはなかった。
担架は、皆の手に囲まれたまま、特別室へと運ばれていった。
その後ろを、院長が、手術着のまま、ゆっくりと歩いていた。廊下の窓の外で、師走の陽が、赤坂の街の向こうへ、静かに沈んでいこうとしていた。




