第94話 遺言
昭和三十八年(一九六三年)十二月十四日 夜 東京・赤坂 病院の裏手
夜の十時を回った病院の裏手の通りに、黒いキャデラックが、灯りを消して停まっていた。
運転席の熊木は、ハンドルに両手を置いたまま、通りの角の暗がりを見つめていた。病院を追いだされてから、熊木は家にも道場にも帰らず、昼も夜も、この車の中で、病院の窓を見上げていた。
角の暗がりから、オーバーの襟を立てた細身の男が、足早に歩いてきた。張だった。
熊木が運転席から降りると、張は、白い息を吐きながら、深く頭を下げた。
「熊木さん。無理を言って、すみません」
「こっちです」
熊木は、それだけ言って、病院の塀に沿って裏手へ回った。厨房の勝手口の脇に、洗濯物を運びだすための、鉄の扉が一枚あった。昼間のうちに、熊木は、病院の雑役夫の老人に自分の腕時計を渡して、この扉の閂を、夜まで外しておいてもらっていた。
扉は、軋みながら、内側に開いた。
「階段を上がって、四階の、突き当たりです。廊下には、夜は誰もいません」
熊木は、薄暗い裏階段を指さした。
「熊木さんは」
「自分は、ここで、見張ってます。先生に、出ていけと言われてますから」
張は、熊木の顔を見上げた。熊木は、表情を変えなかった。叩きつけられても、叩きつけられても、静かに深くなっていく、あの目だった。
張は、もう一度だけ頭を下げて、暗い階段を駆けあがっていった。
同じ夜 病院の特別室
扉が、音を立てないように、そっと開いた。
信格は、熱に潤んだ目を、扉のほうへ向けた。また、夢だろうか、と思った。昨夜は、寝台の足元に、政木が立っていた。牛田が笑っていた。凍った川の向こうで、誰かが手を振っていた。
けれど、扉の隙間から滑りこんできた細い影は、夢にしては、ひどく息が荒かった。
「……兄さん」
張だった。
張は、寝台の脇に駆け寄ると、点滴の管に繋がれた信格の太い手を、両手で握りしめた。その手は、冷たい外気に晒されて、氷のように冷えていた。
「勲夫か」
信格は、かすれた声で言った。それから、乾いた唇の端を、ほんの少しだけ持ちあげた。
「……本物の、勲夫か」
「はい。本物です」
張の声が、震えていた。
「ふっ。大げさな顔しやがって。かすり傷だと、新聞に書いてあったろうが」
張は、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。それから、信格の顔を、まじまじと見つめた。
一週間前、上野の焼肉屋で、焼けた肉を次から次へと自分の皿に放りこんでいた男の顔とは、とても思えなかった。頬は削げ落ち、目の下には黒い隈が貼りつき、肌は、熱のせいで、乾いた紙のようにかさついていた。
「兄さん……」
張は、それ以上、何も言えなかった。
信格は、しばらく張の顔を見ていた。それから、扉のほうへちらりと目をやり、朝鮮の言葉で、声を落として言った。
〈勲夫。枕の下に、手を入れろ〉
張は、言われたとおりに、枕の下に手を差し入れた。指先に、紙の感触があった。張は、それを、そっと引きだした。
二つに折った、古い写真が一枚。四つに畳んだ、灰色の粗い紙が一枚。そして、小さな真鍮の鍵が、一つ。
〈預かっとけ〉
信格は、天井を見上げたまま言った。
〈ここは、どうも落ち着かねえ。看護婦が、勝手に枕をひっくり返しやがる。天道の野郎も、毎日、何をこそこそ嗅ぎまわってるかわからねえ。退院するまで、お前が持ってろ〉
張は、写真を開いた。
色褪せた写真だった。オープンカーの後部座席で、優勝旗を抱えて照れくさそうに笑う、綱を締めた大きな男。その隣で、得意げに白い歯を見せている、髷を結った若い男。写真の角が一つ、黒ずんだ血の染みに汚れていた。
〈欣ちゃんとの写真だ。なくしたら、ただじゃおかねえぞ〉
〈……はい〉
〈その鍵は、浜町の部屋のだ。寝室の脇の小部屋の、机の引き出しの、一番奥〉
信格は、目を閉じた。
〈中に、桐の箱がある。金の時計が、一つ入ってる。北の、将軍から届いたもんだ。それから、朱の印の手紙が一通。俺が出るまで、誰にも触らせるな。もし、俺が出るのが遅れて、誰かがあの部屋を嗅ぎまわるようなことがあったら、手紙のほうは、燃やしちまえ〉
張は、黙って聞いていた。
〈その灰色の手紙は、目黒にいた女からだ〉
信格は、少しのあいだ黙っていた。
〈咸興に、俺の娘がいる。怒ったような目をした、俺によく似た娘だ。いつか、北とこっちとのあいだの海が、もう少し静かになったら、俺が、会いに行く。そのときに、あの時計を持っていってやる。それまで、お前が預かっとけ〉
張の手の中で、灰色の手紙が、かすかに震えた。
〈兄さんの、娘さん……〉
〈誰にも、言うな。熊木と、大島と、それから、お前だけだ〉
張は、写真と、手紙と、鍵とを、オーバーの内ポケットの奥に、そっと押しこんだ。それから、寝台の上の信格の手を、もう一度、両手で包みこんだ。
窓の外で、師走の風が、病院の壁を叩いていた。点滴の雫の音が、白い部屋の中に、規則正しく響いている。
〈勲夫〉
信格が、目を開けた。
熱に潤んだ目が、まっすぐに張の顔を見ていた。リングの上で手を挙げているときの目でも、上野の焼肉屋で肉を焼いてくれたときの、あの細めた目でもなかった。張が一度も見たことのない、ひどく澄んだ目だった。
〈俺の顔を、よく見ろ〉
張は、言われたとおりに、信格の顔を見た。
〈これが、仮面を被って生きてきた男の顔だ〉
信格の声は、かすれていた。けれど、一言一言が、張の胸の奥に、刻みつけられるように響いた。
〈長崎の百姓の倅。大和魂の英雄。全部、嘘だ。俺は、その嘘を、二十年以上、被りつづけてきた。嘘を被って、城を建てて、日本の娘を嫁にもらって、それで、このざまだ〉
信格は、乾いた唇で、短く笑った。
〈仮面ってのはな、勲夫。被ってるうちに、顔の皮膚に貼りついちまうんだ。剥がそうとすれば、肉ごとめくれる。だから、もう、剥がせねえ。剥がせねえまま、こうして、白い部屋で、知らねえ名前の札を扉にかけられて、寝かされてる〉
〈兄さん……〉
〈黙って聞け〉
張は、唇を噛んだ。
〈お前は、名前を変えて、日本の名前で、野球をやってる。それは、いい。隠したけりゃ、隠せ。俺は、それを責めねえ。この国で生きていくには、そうするしかねえときもある〉
信格の手が、張の手の中で、かすかに力をこめた。
〈だがな。仮面だけは、被るな〉
張は、信格の顔を見つめていた。
〈誰かに書かれた台本どおりに、白い歯を見せて笑うな。誰かの糸の先で、踊るな。お前には、バットがある。お前の打った数字は、誰が何と言おうと、お前のもんだ。台本じゃねえ。嘘じゃねえ〉
信格は、大きく息を吸いこんだ。腹の奥で、焼けた石が、ごろりと転がった。それでも、信格は、言葉を止めなかった。
〈その本物の数字で、奴らを、引きずり下ろせ。大河原も、松木も、球団の連中も、お前を見下ろしてる連中を、一人残らず、お前のバットで、黙らせろ。俺には、それができねえ。俺は、偽物だからな〉
張の目から、涙が、ぽたりと落ちた。信格の手の甲に、落ちた。
〈……勲夫。お前は、本物になれ〉
信格は、それだけ言うと、疲れたように目を閉じた。
張は、信格の手を握りしめたまま、肩を震わせていた。声を殺して、泣いていた。
〈泣くな、馬鹿野郎〉
信格は、目を閉じたまま、口の端を持ちあげた。
〈死ぬわけじゃあるまいし。……行け。見つかったら、面倒だ〉
張は、顔を上げた。
〈兄さん。また、来ます〉
〈ああ〉
信格は、目を閉じたまま、言った。
〈正月が明けたら、また、上野の、あの店へ行こう。今度は、お前が、俺に肉を焼け〉
〈……はい〉
張は立ちあがり、寝台の上の信格に向かって、深く、深く、頭を下げた。それから、扉を音もなく開けて、白い廊下の暗がりの中へ、消えていった。
扉が、静かに閉まった。
信格は、目を開けて、白い天井を見上げた。枕の下は、もう、空っぽだった。
「……ふっ」
乾いた唇から、かすれた笑いが、ひとつだけ漏れた。
同じ夜更け 病院の裏手
鉄の扉が軋んで、張が、裏手の暗がりに転がりでてきた。
熊木は、扉の脇の壁にもたれて立っていた。張の顔を見て、熊木は、何も訊かなかった。張の目は、真っ赤に腫れていた。
「……熊木さん」
張は、オーバーの内ポケットの上に、手を当てた。
「兄さんは、本物でしたよ」
熊木は、少しのあいだ、黙って張の顔を見ていた。それから、病院の四階の、突き当たりの窓を見上げた。その窓だけに、白い灯りがともっていた。
「……知ってます」
熊木は、それだけ言った。
師走の夜風が、二人のあいだを吹き抜けていった。




