第93話 付託
昭和三十八年(一九六三年)十二月十四日 東京・赤坂 病院の特別室
面会は、誰にも許されていないはずだった。
それでも昼過ぎに、扉が控えめに叩かれ、院長が自ら扉を開けて、一人の男を部屋の中へ通した。
男は、扉の上の枠に頭をぶつけないように、身を深くかがめて入ってきた。二メートルを超える体に、仕立てのいい紺の背広を着ている。郷馬だった。
院長は、郷馬に小さく会釈すると、何も言わずに扉を閉めて出ていった。松木の新聞社の名を出せば、この病院のどの扉も開くのだということを、信格は、熱に濁った頭の片隅で、ぼんやりと理解した。
郷馬は、寝台の脇に立ったまま、しばらく信格の顔を見下ろしていた。
信格の頬は、この数日で、げっそりと削げ落ちていた。熱に潤んだ目の下には、黒い隈が貼りついている。乾いた唇は、白くひび割れていた。
「先生」
郷馬は、穏やかに言った。
「お加減は、いかがですか」
「……ふっ。見りゃあ、わかるだろう」
信格は、かすれた声で笑った。郷馬は、表情を変えずに、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。長い脚が、椅子の前で、窮屈そうに折れ曲がった。
窓の外では、冬の薄い陽が、病院の庭の裸の銀杏を、白く照らしていた。
「昨夜は、どこで、やった」
信格が、天井を見上げたまま訊いた。郷馬は、少しのあいだ黙っていた。
「……蔵前です」
「客は、入ったか」
「はい。満員でした」
「そうか」
信格は、目を閉じた。
あの夢の中の掛け声が、耳の奥で、かすかに響いていた。ビッグフット、ビッグフット。それが途中で別の言葉に変わっていったことまで、郷馬に訊く気には、なれなかった。
「……郷馬」
「はい」
「お前の、ハワイと、アメリカの金な」
郷馬は、黙って、信格の顔を見ていた。
「あれは、俺が、使っちまった。浜町の引き出しに、しまいこんで、それから、使っちまった」
何に使ったのかは、言わなかった。新潟の港で、起重機に吊られて、北の船へ運ばれていった黒い車のことは、言わなかった。
郷馬は、しばらく何も言わなかった。それから、穏やかに答えた。
「知っていました」
信格は、目を開けて、郷馬の顔を見た。
郷馬は、いつもと同じ、少し眠たげな、静かな目をしていた。怒ってもいなかったし、責めてもいなかった。ただ、何もかもを、とうに知っていた男の目だった。
「……そうか」
信格は、また、天井に目を戻した。
「お前は、いつも、そうだったな。何もかも知ってて、何も言わねえ。俺の前で頭を下げて、腹の中で、俺を値踏みしてやがった」
郷馬は、答えなかった。
「それで、いい」
信格は、低く言った。
「お前は、それでいい。俺みてえになるな」
郷馬の眉が、ほんのわずかに動いた。部屋の中が、静まり返った。点滴の雫の落ちる音だけが、規則正しく響いていた。
やがて郷馬は、背広の袖を少しだけまくり、左の手首の腕時計に目をやった。銀色の、外国製の時計だった。松木の局との打ちあわせが、このあとに控えているのだろう。その仕草を、信格は、目の端で見ていた。
「……郷馬」
「はい」
信格は、しばらく言葉を探していた。
熱に濁った頭の中で、京都の、体育館の薄暗い控室の光景が、ぼんやりと浮かんでいた。出自を隠すために娶った女と、その女が産んだ、男の子。最後に会ったとき、あの子は、十になったばかりだった。一日じゅう、重い鞄を細い腕に抱えて、自分のあとをついて回った。帰り際に、ガラスの石を一つ、その小さな掌に握らせてやった。世界の王者のベルトから外れた、偽物の石だった。
本物だぞ、と、自分は言った。あの子は、目を輝かせて、それを握りしめた。
「京都の、倅をな」
信格の声は、かすれていた。
「頼む」
郷馬は、腕時計から目を上げた。それから、寝台の上の信格の顔を、少しのあいだ黙って見ていた。やがて、穏やかに、いつもより少しだけ明るい声で言った。
「何を言うんですか、先生」
郷馬は、椅子の上で、長い脚を組み直した。
「早く復帰して、私を倒してください。先生と私とで、もう一度、日本じゅうを沸かせましょうよ」
テレビの前で、記者の前で、何度も口にしてきたのと同じ調子の言葉だった。誰が聞いても、師を案じる一番弟子の、まっすぐな励ましにしか聞こえなかった。
信格は、郷馬の顔を見つめていた。その静かな、少し眠たげな目の奥に、何が映っているのか。私を倒してください、と郷馬は言った。倒される側に、いま立っているのは、どちらなのか。
郷馬は、それきり何も言わなかった。倅のことを、引き受けるとも、引き受けないとも、言わなかった。
やがて、郷馬の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「ふっ」
信格がこの十年、何百回となく口にしてきた、あの短い笑い。それを、郷馬は、そのまま信格に返した。
信格は、乾いた唇の端を、ほんの少しだけ持ちあげた。
「……ふっ」
二人の男の短い笑いが、白い部屋の中で、一度だけ重なって、消えた。
郷馬は、椅子から立ちあがり、深々と頭を下げた。それから、扉の上の枠に頭をぶつけないように身をかがめ、静かに部屋を出ていった。
同じ日の夕方 病院の廊下
廊下の向こうでは、松木の秘書が、郷馬を待っていた。
「お待ちしておりました。社主が、有楽町でお待ちです」
郷馬は、黙って頷き、秘書のあとについて歩きだした。病院の長い廊下には、見舞いの花がまだ並んでいる。どの札にも、力王山先生へ、と書かれていた。
玄関へ下りる階段の踊り場で、郷馬は、ふと足を止めた。背広の内ポケットから、使い古した手帳を取り出し、鉛筆を走らせた。東都の頃から書きつづけてきた手帳だった。
『十二月十四日。赤坂。
先生、痩せる。
ハワイの金のこと、使った、と。知っていた、と答える。
俺みてえになるな、と。
京都の倅を、頼む、と。
早く復帰して、私を倒してください、と答える』
郷馬は、最後の一行の下に何かを書き足そうとして、鉛筆を止めた。
引き受けた、とは、書かなかった。断った、とも、書かなかった。
郷馬は、手帳を閉じ、内ポケットにしまった。それから、踊り場の窓から、冬の薄い陽が傾いていく赤坂の街を、しばらく見下ろしていた。
「郷馬さん」
秘書が、階段の下から声をかけた。
郷馬は、もう一度だけ、左の手首の腕時計に目をやった。それから、ゆっくりと階段を下りていった。
同じ日の夜 東京・有楽町 松木の新聞社 社主室
社主室の窓の外には、皇居の濠の黒い水が、冬の夜の底に沈んでいた。
松木は、窓を背にした大きな机の向こうに座り、ブランデーのグラスを、手の中で揺らしていた。郷馬は、その向かいの椅子に、長い脚を窮屈そうに折りたたんで腰かけていた。
「それで、どうだった。力王くんの様子は」
松木は、グラスの縁越しに、郷馬の顔を見た。郷馬は、少しのあいだ黙っていた。
「先生のことです」と、郷馬は、穏やかに答えた。「すぐに、復帰してくださるでしょう」
「そうか」
松木は、満足げに頷いて、グラスを口に運んだ。それから、グラスを机の上に置き、眼鏡を指先で押しあげた。
「それでだ、郷馬くん」
松木は、机の上で、両手の指を組んだ。
「我々は、これからは、君を主役にと考えておる」
郷馬は、表情を変えなかった。
「力王くんには、復帰してすぐに、引退してもらおうと思っておるのだ。最後の花道として、君との一騎打ちを組む。引き分けでな。師匠と一番弟子が、互いに一歩も譲らずに、時間切れ。そこで、力王くんがリングの上でマイクを握って、あとは郷馬に任せる、と言う。客は泣くぞ。視聴率も、覆面のときを超えるかもしれん」
松木は、楽しげに笑った。まるで、もう台本の頁をめくっているかのような口ぶりだった。
「……はぁ」
郷馬は、短く応じた。それから、少しだけ首を傾げた。
「先生が、お引き受けなさるかどうか」
「なに、心配はいらん」
松木は、手をひらひらと振った。
「彼も、いまや立派な実業家だ。渋谷に城を建て、箱根の山を拓き、赤坂の店にも金を出しておる。リングを降りたって、食うには困らん。これからは、プロモーターとして、君たち若い者を育てる側に回ってもらう。そういうふうに、頑張ってもらえるよう、こちらでも考えておる」
松木は、そう言って、また、ブランデーのグラスを手に取った。
郷馬は、黙って、松木の顔を見ていた。それから、左の手首の腕時計に、ちらりと目を落とした。銀色の針が、夜の十時を指していた。
「わかりました、社主」
郷馬は、穏やかに頭を下げた。
窓の外の濠の水面に、遠くの街の灯りが、ひとつ、ゆらりと揺れて、消えた。




