↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
94/104

第92話 密室

 昭和三十八年(一九六三年)十二月十二日 東京・赤坂 病院の特別室


四日目の昼過ぎ、院長は、看護婦を二人連れて、特別室に入ってきた。


信格の熱は、朝よりもさらに上がっていた。額に浮いた脂汗を、律子が濡れた手拭いで何度も拭っている。腹の奥の焼けた石は、もう、波のように寄せては返すのではなく、絶え間なく腹の中を転がりつづけていた。


院長は、信格の脈を測り、聴診器を胸に当て、腹の包帯の上から、そっと手を置いた。それから、律子のほうへ向き直って、穏やかに言った。


「傷口に、少し熱を持っております。今日からは、どなたのお見舞いも、ご遠慮いただきましょう。奥様だけは、昼のあいだはお付き添いくださって結構ですが、夜は、どうか、お宅へお帰りになってお休みください。奥様まで倒れられては、先生がお困りになります」


律子は、何か言いかけて、院長の顔を見た。院長は、銀縁の眼鏡の奥の目を伏せたまま、静かに頷いた。


「廊下にいらっしゃる、お弟子さんにも、お引き取りいただきます。病院の決まりでございますので」


院長が部屋を出ていってしばらくすると、扉の外で、男の声と、看護婦たちの声とが、低く言い争うのが聞こえた。熊木の声だった。やがて、その声は、廊下の向こうへ遠ざかっていき、聞こえなくなった。


夜の九時になると、律子も、院長に言われたとおり、後ろ髪を引かれるようにして帰っていった。


「明日の朝、一番に参りますから」


律子は、寝台の脇で、信格の手を両手で包みこんだ。湯呑みの破片を拾ったときの小さな傷の跡が、まだ指先に残っていた。


扉が、閉まった。その向こうに、もう、誰もいなかった。


同じ夜 病院の特別室


白かった。


天井も、壁も、寝台の敷布も、窓の帳も、何もかもが白かった。その白さが、熱のせいで、ゆっくりと波打っている。点滴の雫の落ちる音だけが、どこか遠くで、規則正しく響いていた。


腹の中で、焼けた石が、ごろり、ごろりと転がっていた。一つだった石が、二つになり、三つになった。それが、腹の中で擦れあうたびに、白い天井が、ぐらりと傾いた。


信格は、枕元の呼び鈴に手を伸ばした。押した。遠くで、ベルの鳴る音が聞こえた気がした。扉を見つめて、待った。足音は、来なかった。


もう一度、押した。ベルの音が、白い廊下の向こうへ、吸いこまれるように消えていった。それとも、最初から、鳴ってなどいなかったのか。指先に呼び鈴の固さを感じているのかどうかさえ、信格には、もう、よくわからなかった。


部屋の隅で、受像機が、ひとりでに明るくなった。


金曜の夜八時だった。今日は金曜だったろうか。木曜ではなかったか。それとも、もう何日も前に、金曜は過ぎてしまったのか。


ブラウン管の真ん中に、白い光の点が浮かび、ゆっくりと広がっていった。リングだった。すり鉢の底まで、客で埋め尽くされている。三友電機の看板。テレビカメラの黒い首。


リングの中央に、郷馬が立っていた。長い脚を高々と振りあげ、アメリカの大男の顔を、巨大な足の裏で蹴り飛ばしている。客席が、地鳴りのようにどよめいた。


ビッグフット、ビッグフット。


ひび割れた掛け声が、受像機の小さなスピーカーから流れていた。ひと月前まで、あの客席は、自分の名前を叫んでいたはずだった。リキオー、リキオー、と。


掛け声が、ふと、変わった。


最初は、聞き違いかと思った。けれど、客席を埋め尽くした何千という口が、いっせいに、同じ言葉を叫んでいた。


チョーセン。チョーセン。チョーセン。


信格は、受像機から目を逸らそうとした。首が、動かなかった。


画面の中のリングに、いつのまにか、白い覆面の男が立っていた。五月に、自分の膝を四の字に締めあげた、あの男だった。男は、リングの真ん中で、ゆっくりと両手を覆面にかけ、それを、頭の上へ、すっぽりと脱ぎ捨てた。


覆面の下から現れたのは、黒縁の眼鏡の、禿げあがった平凡な男の顔ではなかった。自分の顔だった。


いや、自分の顔ではない。白い歯を見せて笑う、力王山の顔ではなかった。頬はこけ、髪は短く刈られ、白い壁の前に立たされて、カメラを睨みつけるように見ている、怒ったような目をした男の顔。崔信格の顔だった。


その顔が、受像機の中から、まっすぐに自分を見ていた。


信格は、叫ぼうとした。声が、出なかった。


腕を上げようとした。点滴の管が、手首に絡みついていた。いや、管ではなかった。細い、白い糸だった。両手の手首にも、両足の足首にも、首にも、何十本という白い糸が結びつけられて、それが、白い天井の、どこまでも高いところへ伸びていた。糸の先は、見えなかった。


糸が、ぴんと引かれた。信格の腕が、勝手に持ちあがった。右の手が、手刀の形に握られて、宙を薙いだ。受像機の中の客席から、どっと拍手が湧いた。


見ろ、と、信格は思った。声には、ならなかった。


これが、立ちあがった日本の姿か。嘘のヒーローに縋りついて、踊っているだけじゃねえか。看板が掛け替えられても、気づきもしねえで。目を覚ませよ、日本人……。


糸が、また引かれた。今度は、左の手が持ちあがった。


……いや。踊らせてきたのは、この俺か。


白い歯を見せて、嘘を売りつづけてきた。長崎の百姓の倅。大和魂の英雄。その嘘に、日本じゅうが、喜んで拳を突きあげてくれた。


その俺を踊らせてきたのは、大河原だ。松木だ。岸本だ。佐々川だ。


信格は、糸の伸びていく先を、目で追おうとした。白い天井の、さらに上の、白い闇の中で、誰かの手が糸を握っているのが、ぼんやりと見えた気がした。大河原の、細く、骨ばった指だった。


その大河原の手首にも、白い糸が、結びつけられていた。


糸は、さらに上へ伸びていた。大河原の手首から、白い闇の、もっと高いところへ。そこで糸を握っている手は、もう、顔も見えなかった。痩せた、白い、知らない男の手だった。


あいつらだって、糸の先で、首を振らされているだけじゃねえか。


糸の先の人形が、糸の先の人形を踊らせ、その人形が、また別の人形を踊らせている。誰も、自分がどの糸に吊られているのかを、知らない。そして、糸の切れた人形は、捨てられる。


寝台の足元に、誰かが立っていた。


柔道着ではなく、古い背広を着た、背の低い男だった。政木だった。巌流島のあの夜、血の海に沈めた男。南米から、毎月、同じ三行の手紙を送りつけてきた男。その手紙を、信格は、一通残らず、葉巻の火で燃やしてきた。


政木は、何も言わずに、寝台の上の信格を見下ろしていた。それから、唇だけを動かした。


逃げるな。


声は、聞こえなかった。けれど、その三文字だけは、はっきりと読めた。


政木の背後の白い闇から、もう一つの影が現れた。小柄な、禿げた老人だった。牛田だった。金で政木の首の弱さを売った男。札束を受け取りながら、黄色い歯を見せて笑い、こう言った男。


お前は、ろくな死に方はせんぞ。


老人の笑い声が、白い部屋の中に、乾いた音を立てて響いた。


信格は、目を閉じた。


閉じた瞼の裏に、凍った川が見えた。端から端まで、白く凍った川だった。子供の頃の自分が、その上を、向こう岸へ向かって走っていた。向こう岸に、誰かが立って、手を振っている。母だったのか、秀貞だったのか、それとも、写真の中の、怒ったような目をした娘だったのか。


走っても、走っても、向こう岸は近づかなかった。足元で、氷が、みしり、と鳴った。


信格は、目を開けた。


十二月十四日 夜明け 病院の特別室


窓の外が、白みはじめていた。


部屋の中は、静かだった。点滴の雫が、規則正しく落ちている。両手の手首には、点滴の管が一本、細いガーゼで留められているだけだった。白い糸など、どこにもなかった。寝台の足元にも、誰もいなかった。


扉が開いて、三上が入ってきた。


三上は、何も言わなかった。目を伏せたまま、湿らせたガーゼで信格の唇を拭い、点滴の瓶を取り替えると、そそくさと部屋を出ていった。


取り替えられたばかりの点滴の瓶に、小さな札が貼られていた。熱に潤んだ目を凝らすと、そこに、十二月十四日、と書かれているのが読めた。


一晩しか、経っていないはずだった。それなのに、日付が、一つ、どこかへ消えていた。


信格は、首を動かして、部屋の隅の受像機を見た。


ブラウン管は、灰色に暗く沈んでいた。電源の紐は、壁の差しこみ口から抜かれたまま、床の上に、だらりと垂れていた。


いつから、抜かれていたのか。昨夜、あの画面の中で、郷馬は本当に戦っていたのか。客席は、本当に、ビッグフットと叫んでいたのか。それとも、あれは。


信格には、わからなかった。


腹の奥で、焼けた石が、また一つ、ごろりと転がった。


「……ふっ」


乾いた唇から、かすれた笑いが、ひとつだけ漏れた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。