第91話 禁食
昭和三十八年(一九六三年)十二月十一日 東京・赤坂 病院の特別室
三日目の朝、信格は、湿らせたガーゼを持ってきた三上の手を、払いのけた。
ガーゼは床に落ちて、白いリノリウムの上に、小さな染みを作った。三上は、払いのけられた手を胸の前で押さえたまま、しばらく寝台の上の男を見下ろしていた。それから、何も言わずに床のガーゼを拾いあげ、静かに部屋を出ていった。
喉が、焼けるように渇いていた。
点滴の管からは、相変わらず規則正しく雫が落ちている。けれど、その雫は、一滴たりとも喉を潤してはくれなかった。舌は、干からびた革のように口の中に貼りつき、唾を飲みこもうとするたびに、喉の奥が裂けるように痛んだ。腹の奥の重たい疼きは、昨日よりも、また少し熱を帯びていた。
「寛人」
信格は、扉の外に向かって、かすれた声を張りあげた。
扉が開いて、熊木が入ってきた。この三日、熊木は一度も家に帰らず、扉の外の長椅子で眠っていた。
「はい、先生」
「赤坂の、あのホテルの食堂へ行け。ステーキを焼かせろ。一番厚いやつをな。それと、赤い葡萄酒を一本だ」
熊木は、扉の前に立ったまま、動かなかった。
「聞こえねえのか」
「……できません、先生」
熊木は、低い声で、しかしはっきりと言った。
「院長先生に、止められております。水一滴も、口から入れてはならないと」
「俺が、持ってこいと言ってるんだ」
「できません」
信格の手が、枕元の台の上の水差しを掴んだ。空の、ガラスの水差しだった。それが、熊木の足元に叩きつけられ、甲高い音を立てて砕け散った。
「てめえは、誰の飯を食ってると思ってやがる」
熊木は、足元に散らばったガラスの破片を見下ろしていた。それから顔を上げ、寝台の上の信格を、まっすぐに見た。叩きつけられても、叩きつけられても、静かに深くなっていく、あの目だった。
「先生の飯です」
熊木は、そう言った。
「だから、持ってきません」
部屋の中が、しんと静まり返った。
信格は、熊木の顔を睨みつけていた。その目の中に、怒りとは違う何かが、一瞬、揺れた。
「……出ていけ」
信格は、顔を背けて、吐き捨てた。
「てめえの顔なんぞ、二度と見たくねえ。出ていけ」
熊木は、深く頭を下げた。それから、床のガラスの破片を、一つずつ素手で拾い集め、それを掌に載せたまま、静かに部屋を出ていった。扉が、閉まった。
熊木は、扉の外の長椅子に、また腰を下ろした。帰りはしなかった。
同じ日の夕方 病院の特別室
夕方、天道が、いつものように口の端で笑いながら顔を出した。
「オヤジ、具合はどうです」
信格は、白い天井を見上げたまま、答えなかった。
天道は、窓際の台の上の果物籠を見やり、昨日置いていった蜜柑が手つかずのまま残っているのを確かめると、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。
「寛人の奴が、廊下でしょんぼりしてましたよ。何かあったんですか」
「……天道」
信格は、天井を見上げたまま、低く言った。
「ステーキと、葡萄酒を持ってこい」
天道の口の端の笑みが、ほんの一瞬だけ、止まった。
それから天道は、ゆっくりと信格の顔を見下ろした。点滴の管。乾いてひび割れた唇。熱を帯びて、うっすらと赤らんだ頬。天道は、しばらく何も言わなかった。
「医者に、止められてるんでしょう」
「かすり傷だ。腹が減って、死にそうなんだ。このまま干からびて死ぬくらいなら、肉を食って死ぬ」
天道は、窓の外に目をやった。病院の庭の銀杏の木は、もう、すっかり葉を落としていた。
「……わかりました、オヤジ」
天道は、いつものように口の端で笑って、立ちあがった。
同じ日の夜 病院の特別室の前の廊下
夜の八時を回った頃、天道が、風呂敷包みを一つ提げて、廊下の向こうから戻ってきた。
長椅子に座っていた熊木が、立ちあがった。風呂敷の結び目の隙間から、細長い瓶の首が覗いていた。包みの底からは、焼いた肉の匂いが、かすかに漂ってきた。
熊木は、天道の前に、黙って立ちはだかった。
「どけ、寛人」
「どきません」
「オヤジの言いつけだ」
「先生を、殺す気ですか」
天道の目が、細くなった。口の端の笑みが、消えていた。
「言葉に気をつけろよ、ブラジル」
天道は、低い声で言った。
「俺は、オヤジに頼まれたものを、持ってきただけだ。それを止める権利が、お前にあるのか」
熊木は、動かなかった。
そのとき、扉の向こうから、かすれた声が飛んできた。
「寛人。通せ」
熊木の肩が、びくりと震えた。
「通せと言ってるんだ」
熊木は、しばらく扉を見つめていた。それから、ゆっくりと、天道の前から一歩退いた。
天道は、熊木の脇をすり抜けて、扉を開け、中に入っていった。扉が閉まる直前、天道の背中越しに、寝台の上で身を起こした信格の姿が見えた。
熊木は、閉まった扉の前に、立ちつくしていた。やがて、扉の向こうから、瓶の栓が抜ける、乾いた音が聞こえた。
同じ夜 病院の特別室
信格は、天道から瓶をひったくると、そのまま口をつけて、喉を鳴らして飲んだ。
赤い葡萄酒が、口の端からあふれて、白い寝間着の胸元を濡らした。かまわずに、信格は飲みつづけた。乾ききった喉に、冷たい酒が流れこんでいく。舌が、喉が、腹の奥が、生き返るようだった。
瓶の半分ほどを一気に空けて、信格は、大きく息を吐いた。
「……ふっ。生き返った」
天道は、風呂敷を解いて、寝台の上に、ホテルの銀の弁当箱を置いた。蓋を開けると、分厚く焼いた肉が、まだ湯気を立てていた。
信格は、手づかみでその肉を掴み、齧りついた。肉汁が、指を伝って、手首まで流れ落ちた。噛みしめるたびに、腹の奥の傷が引き攣れて、鈍く痛んだ。それでも、信格は噛むのをやめなかった。
天道は、椅子に腰を下ろして、黙ってそれを見ていた。
肉を食いちぎり、葡萄酒で流しこむ信格の姿は、まるで、何日も餌にありつけなかった獣のようだった。日本じゅうの茶の間が拝んできた、大和魂の英雄の姿ではなかった。
「……天道」
肉を半分ほど平らげたところで、信格が、口を拭いもせずに言った。
「お前、なんで、俺を止めなかった」
天道は、すぐには答えなかった。それから、いつものように、口の端で笑った。
「病院ってのは、何でも大げさに言うもんですよ。それに、我らが力王山先生が、こんな掠り傷ぐらいで、何も食えないなんて。そんな馬鹿な話が、あるもんですか」
信格は、天道の顔を、しばらく見つめていた。
「……ふっ。違えねえ」
それから、また肉に齧りついた。
天道は、信格が食べ終えるのを待って、空になった弁当箱と、残り少なくなった瓶とを、風呂敷に包み直した。
「これは、俺が持って帰ります。看護婦に見つかったら、うるさいですからね」
天道は、風呂敷包みを提げて、扉のほうへ歩いていった。扉の前で、一度だけ振り返った。
寝台の上で、信格は、満ち足りたように目を閉じていた。赤い葡萄酒の染みが、白い寝間着の胸元に、血のように広がっていた。
天道は、何も言わずに、部屋を出た。廊下の長椅子に座っていた熊木が、顔を上げた。天道は、熊木の顔を見ないまま、その前を通り過ぎていった。
翌朝 病院の特別室
夜明け前から、信格の体は、熱を持ちはじめていた。
腹の奥の疼きは、もう、重たいだけの痛みではなかった。焼けた石を腹の中で転がされているような、鋭い痛みが、波のように寄せては返した。額に、脂汗が浮いていた。
朝の回診で部屋に入ってきた院長は、寝台の脇に立つなり、ほんのわずかに鼻を動かした。部屋の中に、かすかに、葡萄酒と焼いた肉の匂いが残っていた。
院長は、何も言わなかった。信格の手首を取って脈を測り、額に手を当て、腹の上の包帯を少しだけめくって傷口を確かめた。それから、看護婦に、点滴の量を増やすように、とだけ短く告げた。
「少し、お熱がありますね」
院長は、銀縁の眼鏡の奥の目を伏せたまま、穏やかに言った。
「様子を、見ましょう」
それだけ言って、院長は部屋を出ていった。
信格は、熱に潤んだ目で、白い天井を見上げていた。腹の奥で、焼けた石が、また一つ、ごろりと転がった。




