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第90話 見舞

 昭和三十八年(一九六三年)十二月十日 東京・赤坂 病院


二日目の朝には、病院の玄関の脇の廊下が、見舞いの花で埋め尽くされていた。


三友電機から届いた胡蝶蘭の鉢が十いくつ、松木の局と新聞社から届いた籠盛りの花、後援会の男たちからの花、映画会社や芸能社からの花。どの札にも、力王山先生へ、と書かれていた。その札が廊下の両側にずらりと並び、甘い匂いが、消毒薬の匂いと混じりあって、病院の中に重く漂っていた。


特別室の扉の脇にも、ひときわ大きな花が一つ置かれていた。


白い菊と百合とを高く盛りあげた、背丈ほどもある籠だった。札には、墨で太く、力王山先生江、と書かれ、その脇に、小さく、大河原、とだけ添えられていた。


信格は、扉が開くたびに、その白い花の端を、寝台の上から見ていた。


「……花だけか」


誰に言うでもなく、信格は呟いた。


あの夏の夜から、大河原は一度も電話に出ていない。刺されて三日目になっても、顔を見せには来ない。花だけが、扉の脇で、白く、大きく、黙って立っていた。


同じ日の昼 病院の特別室


昼過ぎに、扉が控えめに叩かれた。


熊木が扉を開けると、和服姿の小柄な女が、廊下から飛びこむようにして入ってきた。


「お兄ちゃん!」


美園ゆりだった。


ゆりは、寝台の脇に駆け寄り、点滴の管に繋がれた信格の太い腕に、両手でしがみついた。舞台の上で何万という客を泣かせてきた大きな目が、真っ赤に腫れていた。


「刺されたって聞いて、あたし、もう、どうしようかと……」


「ふっ。大げさだな、ゆりちゃんは」


信格は、白い歯を見せて笑った。笑うと、腹の奥が引き攣れたが、顔には出さなかった。


「かすり傷だ。正月には、リングに上がる。ゆりちゃんの紅白も、ちゃんと見てやるからな」


「ほんとに?」


「ああ、ほんとだ」


ゆりは、ようやく少しだけ笑って、着物の袖で目元を拭った。


ゆりの後ろから、着流しの上に羽織を重ねた岡田が、ゆっくりと部屋に入ってきた。岡田は、寝台の足元に立って、信格の顔を、しばらく黙って見下ろしていた。


「力王。えらい目に遭うたな」


「親分。わざわざ、すまねえ」


「神戸から、お嬢がどうしても行く言うてきかんでな」


岡田は、そう言って、ゆりの背中を見やった。それから、窓のほうへ目を移し、扉の脇の、あの白い花の籠に、ちらりと目をやった。札の脇の、小さな大河原の名が、岡田の目に入ったはずだった。岡田は、何も言わなかった。


「医者は、何て言うとる」


「一週間か、十日だとよ。冗談じゃねえ。三日で出てやる」


「あほう」


岡田は、静かに言った。


「今度ばかりは、医者の言うこと、ようきいとけ。水一滴でも、勝手に飲むんやないで。お前の腹は、もう、お前一人のもんやないんや」


信格は、岡田の顔を見上げた。岡田の目は、笑っていなかった。何かを言いたげに、それでいて、どうしても言えずにいるような目だった。


「……ああ。わかったよ、親分」


岡田は、それ以上何も言わずに、ゆりの肩に手を置いた。


部屋を出る間際に、岡田は、廊下の向こうから歩いてくる院長とすれ違った。院長が、銀縁の眼鏡の奥の目を伏せて会釈すると、岡田は立ち止まり、その顔を、長いあいだ、黙って見つめていた。院長は、目を上げなかった。


岡田は、何も言わずに、ゆりを連れて、廊下の向こうへ去っていった。


同じ日の夕方 病院の特別室


夕方、窓の外が茜色に染まりはじめた頃、扉の外で、熊木が誰かに深々と頭を下げる気配がした。


扉が開いて、大きな影が、静かに部屋に入ってきた。鼠色の背広の、桜富士だった。


桜富士は、見舞いの品も花も、何も持っていなかった。寝台の脇の椅子に腰を下ろすと、両手を膝の上に置いて、信格の顔を、黙って見ていた。信格も、黙って、桜富士の顔を見返した。


窓の外で、病院の庭の銀杏の木が、最後の黄色い葉を、一枚、また一枚と落としていた。


「……派手に、やられたな」


ずいぶん経ってから、桜富士が言った。


「ふっ。見てのとおりだ」


「酒は、飲めんのだろう」


「水も、飲ませてもらえねえ」


「そうか」


桜富士は、膝の上の手を、ゆっくりと組み直した。


「治ったら、飲みに行くか」


浅草の縄暖簾の店で、場所が終わるたびに交わした言葉だった。


「……ああ」


信格は、白い天井を見上げた。


「浅草の、あの店でな」


「ああ。あの店でな」


二人とも、しばらく何も言わなかった。点滴の雫の落ちる音だけが、部屋の中に響いていた。


「欣ちゃん」


信格が、天井を見上げたまま、口を開いた。


「欣ちゃんは、最初から、知ってたな。俺が、どこの生まれか」


桜富士は、すぐには答えなかった。それから、穏やかに言った。


「ああ。知ってた」


「それでも、飲みに誘ってくれた」


「言っただろう。どこの生まれだろうが、土俵の上じゃ関係ねえ、と。強い奴が強い。それだけだ」


信格は、天井を見上げたまま、目を閉じた。


喉の奥まで、何かがせりあがってきた。浅草の店で初めて並んだ夜にも、暖簾の向こうへ消えていく背中を見送った夜にも、喉のところで固い石のように詰まって、どうしても出てこなかった言葉だった。


欣ちゃん、俺は。俺は、本当は。


言葉は、やはり、出てこなかった。


けれど、桜富士は、もう、その続きを待ってはいなかった。大きな掌を伸ばして、寝台の上の信格の太い手の甲を、一度だけ、軽く叩いた。


「早く、治せよ。力王」


それだけ言って、桜富士は立ちあがった。扉の前で一度だけ振り返り、からりと笑って、廊下へ出ていった。


信格は、目を閉じたまま、叩かれた手の甲の温もりを、しばらく感じていた。


同じ夜更け 病院の特別室


夜が更けると、喉の渇きは、もう、耐えきれないほどになっていた。


信格は、枕元の呼び鈴を押した。しばらくして、若い看護婦が顔を出した。


色白の、首筋の細い娘だった。白衣の胸の名札に、三上、と書かれていた。


娘は、扉の内側で、ほんの一瞬だけ足を止めた。寝台の上の大きな体を見下ろし、それから、自分の右の手首に、ちらりと目を落とした。四年前の秋、薬局の小窓の前で、この男に掴まれた手首だった。札束を白衣の胸のポケットにねじこまれ、今夜、店に来い、と言われた。来なかったら辞めさせてやる、と。


信格は、娘の顔を見ても、何も思い出さないようだった。


「水を、くれ」


三上は、小さく息を吸ってから、寝台の脇に歩み寄った。


「申し訳ございません、対馬さん。院長先生から、お水は一滴もお出ししないようにと、きつく言われておりますので」


「一口でいい」


「……お口を、湿らせるだけでしたら」


三上は、湿らせたガーゼを持ってきて、信格の乾いた唇を、そっと拭った。指先は、少しも震えていなかった。ガーゼから染みこんだ水の冷たさが、唇の上で、すぐに蒸発して消えていった。


信格は、目を閉じたまま、もう一度だけ唇を拭わせた。それから、かすれた声で言った。


「……すまねえな」


三上の手が、ほんの一瞬、止まった。


この男の口から、礼の言葉を聞いたのは、初めてだった。四年前の、あの日の廊下でも、白衣の行列を引き連れていたあいだも、この男は、誰にも礼など言わなかった。


三上は、何も答えずに、ガーゼを盆に戻し、静かに頭を下げた。


部屋を出るとき、扉が半分ほど開いたままになった。


三上は、廊下の薬品棚の前で立ち止まり、棚の脇に吊るされた帳面を、もう一度だけ見下ろした。何度上に書類を上げても埋まらない、空いた欄が、今夜もまだ、そこにあった。三上は、その欄を指でなぞり、それから、何も言わずに帳面を閉じた。


半分開いた扉の外側に、入院患者の名札が掛かっているのが見えた。対馬光夫殿、と書かれていた。名札のすぐ脇には、あの白い花の籠が立っていて、その札には、力王山先生江、とある。


廊下の常夜灯の薄明かりの中で、二つの名前が、並んで白く浮かんでいた。


舞台の上の名前と、書類の上の名前。どちらも、自分の名前ではなかった。崔信格という名前は、この白い病院の、どこにも書かれていなかった。


信格は、枕の下に手を差し入れ、二つに折った写真の角に、指先で触れた。


扉が、ゆっくりと閉まった。



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