第5章 白い密室の時間切れ 第89話 術後
昭和三十八年(一九六三年)十二月九日 東京・赤坂 病院の特別室
目を開けると、白い天井があった。
どこまでも白い天井だった。染み一つなく、継ぎ目さえ見えない。その白さが、信格には、ひどく遠いものに思えた。雪をかぶった北の山の色に、少しだけ似ていた。
しばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。
腹の奥が、鈍く疼いていた。痛みというより、何か重たいものを、腹の中にずっしりと詰めこまれているような感じだった。喉が、ひどく渇いている。舌が、上顎に貼りついて離れなかった。
「……あなた」
枕元で、声がした。
首だけを動かして、そちらを見た。律子が、寝台の脇の椅子に座っていた。目の下に、薄く隈ができている。一晩じゅう、そこに座っていたのだろう。膝の上で重ねた手が、白くなるほど握りしめられていた。
「お目覚めになったのね。よかった……」
律子の声が、途中で震えた。
信格は、何か言おうとして、乾いた唇を動かした。声が、うまく出てこなかった。もう一度、唾を飲みこもうとして、飲みこむ唾さえないことに気づいた。
「水を……」
律子が、慌てて立ちあがりかけた。そのとき、扉が開いて、白衣の男が入ってきた。院長だった。
痩せた初老の男で、銀縁の眼鏡の奥の目が、いつも少し潤んだように見える。この病院には、長いあいだ世話になってきた。肺の写真を光にかざして、相撲は、もう無理です、と告げたあの日も、健診だと言って血を抜かれた日も、いつもこの男が、同じ眼鏡の奥から、自分を見下ろしていた。
「お目覚めですか」
院長は、寝台の脇に立って、穏やかに言った。
「水は、まだいけません。腸に、二か所、穴が開いておりました。縫いあわせはしましたが、しばらくは、水も食べ物も、口から入れてはなりません。点滴で、様子を見ます」
信格は、院長の顔を見上げていた。
「……どのくらいだ」
「傷の具合を見ながらですが、一週間か、十日か」
「冗談じゃねえ」
信格は、かすれた声で笑った。笑うと、腹の奥が引き攣れた。
「こんなもん、かすり傷だ。三日もすりゃあ、リングに上がれる。正月の興行には、間にあわせるぞ」
院長は、何も言わずに、眼鏡の奥の目を細めた。それから律子に、くれぐれも水を飲ませないように、と念を押して、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音がした。信格は、白い天井に、目を戻した。
同じ日の昼 病院の特別室
昼過ぎになると、廊下の向こうが、にわかに騒がしくなった。
新聞社や雑誌社の記者たちが、病院の玄関に押しかけているのだと、熊木が告げに来た。熊木は、昨夜からずっと、扉の外の長椅子に座っていたらしかった。両手の血は、もう洗い流されていたが、着ている背広の袖口には、黒ずんだ染みが残っていた。
「松木さんの新聞が、号外を出しました」
熊木は、扉の脇に立ったまま、一枚の刷り物を差しだした。信格は、寝台の上で首だけを起こして、それを受け取った。一面に、太い見出しが躍っていた。
『力王山、赤坂で暴漢に刺さる 軽傷、命に別状なし』
その下に、病院の玄関前で撮られた写真が載っている。記者たちの人垣の向こうに、白い壁の建物が写っていた。
「ふっ。軽傷か」
信格は、号外を胸の上に放りだした。
「そのとおりだ。軽傷だ。正月には、リングに上がる。記者どもに、そう言っとけ」
「はい」
熊木は、頭を下げた。それから、少しためらってから、背広の内ポケットに手を入れた。取り出したのは、二つに折った古い写真と、四つに畳んだ灰色の紙だった。
「先生の背広は、手術のときに、切られてしまいました。中に入っていたものは、自分が預かっておりました」
信格は、熊木の手の中の二つのものを、見つめた。写真の角が、少しだけ、血に濡れて黒ずんでいた。手紙のほうは、無事だった。
信格は、黙って手を伸ばし、二つを受け取った。それから、律子が花瓶の水を替えに部屋を出ていった隙に、それを枕の下に押しこんだ。熊木は、何も言わずに、それを見ていた。
「……寛人」
「はい」
「誰にも、言うな」
「はい、先生」
熊木は、もう一度頭を下げ、扉の外へ戻っていった。
同じ日の夕方 病院の特別室
夕方、天道が顔を出した。
天道は、果物の籠を一つ提げて、いつものように口の端で笑いながら入ってきた。籠を窓際の台の上に置き、寝台の脇に立って、信格の顔を覗きこんだ。
「オヤジ、ずいぶん派手にやられましたね」
「うるせえ」
「相手の若いのは、まだ見つかってねえそうです。銀座のほうの組の者らしいって話ですがね。警察も、組の連中も、血眼になって捜してますよ」
信格は、天道の顔を見上げていた。昨夜、料亭の座敷で、天道は電話をかけにいった。国のおふくろに、と言って。
「……天道」
「なんです」
「昨夜、お前は、誰に電話をかけた」
天道の口の端の笑みが、ほんの一瞬だけ、止まった。それから、天道は、また笑った。
「言ったでしょう。国のおふくろですよ」
信格は、何も言わなかった。白い天井を見上げたまま、黙っていた。
天道は、しばらく、その横顔を見下ろしていた。それから、果物の籠から蜜柑を一つ取り出して、枕元の台に置いた。
「食えるようになったら、食ってください。山形の蜜柑じゃありませんがね」
天道が出ていくと、部屋の中は、また静かになった。
同じ夜更け 病院の特別室
律子は、寝台の脇の椅子で、膝に毛布をかけたまま、うとうとと眠っていた。
信格は、眠れなかった。
腹の奥の重たい疼きが、夜が更けるにつれて、少しずつ熱を帯びてきていた。喉の渇きは、もう、耐えがたいほどになっていた。点滴の管から落ちる雫の音が、部屋の静けさの中で、規則正しく響いている。
信格は、枕の下に手を差し入れ、二つに折った写真に、指先で触れた。それから、白い天井を見上げた。
かすり傷だ。三日もすりゃあ、リングに上がれる。
自分で言ったその言葉が、白い天井の中に、吸いこまれて消えていった。
窓の外で、師走の風が、病院の壁を叩いていた。




