第四章 最終話 第88話 刺傷
昭和三十八年(一九六三年)十二月八日 東京・赤坂 料亭「千とせ」
夜の八時を過ぎた座敷には、大和プロレスの新しい後援会の男たちが、二十人ほど膝を並べていた。
建設会社の社長に、自動車の販売会社の専務、地方の興行主たち。来年の五輪を当てこんで、この一年で急に羽振りのよくなった顔ぶればかりだった。床の間を背にした上座に、紋付袴の信格が座り、その脇に、天道が控えている。
後援会長を務める建設会社の社長が、盃を掲げて立ちあがった。
「来年は、いよいよ東京の五輪でございます。日本じゅうが、世界に向かって胸を張る年です。大和プロレスも、力王山先生を筆頭に、ますますの隆盛を。それから、次代を担う郷馬くんの、さらなる飛躍を祈念いたしまして」
座敷が、拍手に包まれた。信格は、盃を口元に運んだまま、動かなかった。
次代を担う。この一年、何度その言葉を聞かされたことだろう。新聞が書き、テレビが言い、三友の重役たちが口にし、とうとう、自分の後援会の連中までが、自分の目の前で言うようになった。
信格は、盃の酒を、一息に干した。
宴が半ばに差しかかった頃、天道が、信格の耳元に顔を寄せた。
「オヤジ。ちょいと、電話を一本、かけてきます」
信格は、天道の顔を見た。天道は、いつものように口の端で笑っていた。
「誰にだ」
「国のおふくろですよ。年の暮れは、何かと心配性でね」
天道は一礼して、座敷を出ていった。
信格は、その背中を、目で追っていた。夏にも、天道は同じことを言った。国のおふくろが出てきている、と。十年近く一緒にいて、それまで一度も、天道の口から母親の話など出たことはなかったのに。
信格は、手酌で、盃に酒を注ぎ足した。手元が狂って、酒が、袴の上にこぼれた。
同じ夜 東京・赤坂 ナイトクラブ「ブルー・ムーン」
料亭を出たのは、十時を回った頃だった。
後援会の男たちを先に帰らせると、信格は、熊木の運転するキャデラックに乗りこみ、赤坂の夜の通りを、あてもなく流させた。自分が金を出している店には、行く気がしなかった。顔を知られた支配人に、揉み手で迎えられるのが、今夜はひどく疎ましかった。
「そこで停めろ」
信格が顎で指したのは、通りの角の、地下へ降りる狭い階段の上に、青い三日月の看板を掲げた店だった。一度も入ったことのない店だった。
「お前は、ここで待ってろ」
信格は、熊木を車に残して、ひとりで階段を降りていった。
店の中は、薄暗く、煙草の煙と、香水と、酒の匂いとで満ちていた。奥の小さな舞台で、楽団が、けだるいジャズを演奏している。客たちは、入ってきた大男の顔に気づくと、一斉に囁きを交わした。支配人が飛んできて、奥の一番いい席へ案内した。
信格は、席に腰を下ろすと、ブランデーを一本、頼んだ。ホステスが二人、両脇に座った。信格は、二人の胸元に、黙って札を押しこんだ。それから、グラスに注がれたブランデーを、立てつづけに三杯、喉に流しこんだ。
背広の内ポケットには、二つに折った古い写真と、秀貞の手紙とが、並んで入っていた。
年内に返事をする、と、あの眼鏡の男に言った。大河原は、あの夏の夜から、一度も電話に出ない。天道は、国のおふくろに電話をかけにいく。郷馬は、次代を担う。律子は、あの朝から、二度と海の向こうのことを訊かない。秀貞は、凍りはじめた川の向こうで、もう汁を作れない。
信格は、四杯目のブランデーを空けた。ホステスの一人が、何か冗談を言って笑った。信格には、その言葉が、少しも耳に入ってこなかった。
十一時を少し過ぎた頃、信格は、手洗いに立った。
同じ夜 「ブルー・ムーン」 手洗いへ向かう通路
手洗いへ続く通路は、人がやっとすれ違えるほどに狭かった。壁の裸電球が一つ、暗い橙色の光を落としている。信格は、片手で壁を伝いながら、ふらつく足で通路を進んでいった。
向こうから、若い男が三人、肩を揺らしながら歩いてきた。
真ん中の男は、まだ二十代の半ばに見えた。痩せた体に、派手な柄の背広を着て、髪を油で撫でつけている。どこかの組の若い者らしい、崩れた歩き方だった。
狭い通路で、男の肩と、信格の肩とがぶつかった。男の革靴の踵が、信格の足の甲を、踏みつけた。
普段の信格なら、鼻で笑って、通り過ぎるだけのことだった。こんな若造に足を踏まれたくらいで、いちいち腹を立てていては、夜の街など歩けない。これまで、何百回となく、そうしてきたはずだった。
その夜は、違った。
信格の太い腕が伸び、若い男の背広の胸倉を掴んで、壁に叩きつけた。男の後頭部が壁に当たって、鈍い音がした。裸電球が、ぐらりと揺れた。
「てめえ、どこ見て歩いてやがる」
連れの二人が、後ずさった。壁に押しつけられた若い男は、目の前の大きな顔を見上げていた。顔色は、変えなかった。
信格は、男の胸倉を掴んだまま、顔を寄せた。
「おい。俺が誰か知ってて、いきがってんのか」
男は、少しのあいだ黙っていた。それから、口の端を歪めて、短く答えた。
「ああ」
男は、胸倉を掴まれたまま、信格の耳元に口を寄せた。そして、周りの誰にも聞こえない、低い、掠れた声で、吐き捨てた。
「知ってるよ。……この、朝鮮が」
信格の耳の中で、何かが、ぷつりと切れた。
通路の裸電球の光が、白く弾けた。壁も、床も、若い男の顔も、何もかもが白い光の中に溶けて、消えた。
信格の拳が、若い男の顔に叩きこまれた。もう一発。さらに、もう一発。男の体が、壁に沿ってずり落ちていく。
物音を聞きつけたボーイたちと支配人とが、通路に駆けこんできた。三人がかりで信格の腕にしがみつき、ようやく若い男から引き剥がす。支配人が、平身低頭で信格をなだめながら、席のほうへ押し戻していった。若い男は、連れの二人に両脇を抱えられ、鼻と口から血を流しながら、通路の奥へ引きずられていった。
去り際に、若い男は、一度だけ振り返った。腫れあがった瞼の下の目が、信格の背中を、じっと見ていた。
同じ夜 「ブルー・ムーン」 店内
席に戻った信格は、ブランデーを、立てつづけに二杯あおった。
拳の皮が、少しだけ剥けていた。ホステスたちは、さっきまでの愛想笑いを顔に貼りつけたまま、怯えたように身を縮めている。楽団は、何事もなかったように、けだるいジャズを奏でつづけていた。
知ってるよ。この、朝鮮が。
あの掠れた声が、耳の奥から離れなかった。
二十年以上、隠してきた。長崎の百姓の倅だと、何百回も、何千回も、言いつづけてきた。大和魂の英雄を演じ、日本じゅうを騙し、城を建て、日本の娘を嫁にもらった。それを、見ず知らずの若造が、すれ違いざまの一言で、剥がしていった。
なぜ、あの若造が、それを知っていたのか。夜の街に、もう、そんな噂が流れているのか。それとも、誰かが。
信格は、三杯目を空けた。考えるのを、やめたかった。
それから三十分ほどが過ぎた頃、信格は、また手洗いに立った。
同じ夜 「ブルー・ムーン」 手洗いへ向かう通路
通路には、誰もいなかった。裸電球の光が、さっきよりも暗く感じられた。信格は、壁に手をつきながら、手洗いの扉の前まで進んでいった。
扉の脇の、掃除用具の物入れの陰で、何かが動いた。
信格が振り向くより早く、腹の左の脇に、熱いものが走った。
最初は、殴られたのかと思った。けれど、痛みはなかった。ただ、ひどく熱かった。焼けた火箸を、腹の中に押しこまれたような熱さだった。
信格は、自分の腹を見下ろした。
さっきの若い男が、すぐ目の前に立っていた。腫れあがった顔に、乾きかけた鼻血がこびりついている。その手に、白木の鞘から抜かれた匕首が握られ、刃が、信格の背広の脇腹に、柄の際まで、深々と埋まっていた。
男の目は、怯えていた。怯えながら、それでも、匕首の柄を握る手を離さなかった。
考えるより先に、体が動いていた。
信格の右腕が、腹に刃を埋めたまま、大きく振りあがった。十年以上、日本じゅうの茶の間の前で、アメリカの大男たちの胸板を叩き割ってきた手刀だった。その手刀が、若い男の首の付け根に、横殴りに叩きこまれた。
骨に当たる、乾いた音がした。
若い男の体が、通路の壁まで吹き飛んだ。匕首の柄が、男の手から離れた。男は、壁に背中を打ちつけて崩れ落ち、それから、首を押さえて喉の奥から呻き声を漏らしながら、四つん這いのまま通路の奥の裏口へ這っていき、扉の向こうへ転がり出ていった。
信格は、手刀を振り抜いた姿勢のまま、通路の真ん中に立っていた。
腹に刺さった匕首の柄が、自分の脇腹から突きだしていた。信格はそれを、太い指で掴んだ。引き抜こうとして、手を止めた。
抜くな、と、ハワイの控室で、沖田に教わったことがあった。リングの上で客の投げた瓶の破片が肉に刺さったときも、刺さったものは、医者が来るまで抜くな。抜けば、血が一気に出る、と。
信格は、柄から指を離した。
床には、若い男が取り落としていった白木の鞘が、一つ転がっていた。信格は、それを踏みつけないように跨いで、壁に手をつきながら、店のほうへ戻っていった。
同じ夜 「ブルー・ムーン」 店内
通路の暗がりから、大男がよろめき出てきた。
最初に気づいたのは、さっきまで信格の隣に座っていたホステスだった。大男の背広の脇腹から、白木の柄が突きだしている。その柄の際から滲みだした血が、背広の裾を伝って、磨きあげられた床に、ぽたぽたと黒い染みを落としていた。
女の喉から、甲高い悲鳴が迸った。
それにつられるように、店じゅうの女たちが、次々と悲鳴を上げた。楽団の演奏が、ぶつりと止まった。客たちが椅子を蹴って立ちあがり、壁際へ後ずさる。グラスが床に落ちて、割れる音がした。
支配人が、真っ青な顔で帳場へ駆け寄り、電話の受話器を掴んだ。
「救急車を! 誰か、救急車を呼べ!」
「騒ぐな」
信格の声が、店の中に響いた。支配人の手が、受話器を握ったまま止まった。悲鳴が、しぼむように消えていった。
信格は、腹から突きだした柄を片手で押さえたまま、店の真ん中に立っていた。額に、脂汗が浮いていた。それでも、白い歯を見せて笑っていた。
「掠り傷ぐらいで、救急車なんぞ呼ぶんじゃねえ」
信格は、ゆっくりと店の中を見回した。怯えた顔。目を逸らす顔。口元を覆う手。何十という目が、自分を見ていた。日本じゅうの茶の間が拝んできた男の、血まみれの姿を。
「天下の力王山が、こんなことで死ぬと思うか」
かすれた、それでいて、店の隅々にまで響き渡る声だった。
「ふっ」
信格は、腹を押さえたまま、店の出口へ向かって歩きだした。
同じ夜 「ブルー・ムーン」の前の通り
熊木が地下の店の騒ぎに気づいたのは、階段の下から、女たちの悲鳴が漏れ聞こえてきたときだった。
運転席を飛びだし、階段を駆け下りかけたとき、下から、大きな影が、壁に体を預けるようにして、一段ずつ上がってきた。
「先生」
熊木は、信格の体を、肩で受け止めた。背広の脇腹から、白木の柄が突きだしていた。その周りが、ぐっしょりと濡れていた。熊木の手に、生温かいものが、べっとりとついた。
「……触るな、寛人。抜くんじゃねえぞ」
信格は、熊木の肩に腕を回したまま、低く言った。
「車を出せ」
熊木は、何も答えずに、信格の大きな体を担ぎあげるようにして、キャデラックの後部座席に押しこんだ。それから運転席に飛び乗り、エンジンをかけた。
「病院へ行きます」
「……赤坂の、いつものところへやれ」
信格は、後部座席に体を沈めたまま、言った。
「あそこなら、記者が来ねえ。院長も、口が堅い。騒ぎにはならねえ」
熊木は、アクセルを踏みこんだ。
赤坂の夜の通りを、キャデラックが走り抜けていく。後部座席で、信格は、腹から突きだした柄を見下ろしていた。柄の際から、血が、じわじわと滲みだしていた。
背広の内ポケットの上に、もう一方の手を当てた。二つに折った古い写真と、秀貞の手紙とが、血に濡れずに、まだそこにあった。
あの若造は、知っていた。
「……ふっ」
信格は、後部座席で、小さく笑った。
熊木は、バックミラーの中のその顔を、一度だけ見た。それから、二度と目をやらずに、前だけを見て、ハンドルを握りしめていた。
同じ夜更け 東京・赤坂 病院
夜間の通用口に横づけされたキャデラックから、二人の看護婦が担架を運びだし、大きな体をその上に移した。宿直の医師が、血に濡れた背広の脇を切り開き、脇腹に突き立ったままの匕首を一目見るなり、院長を呼べ、と叫んだ。
手術室の赤いランプが灯ったのは、日付が変わる少し前のことだった。
熊木は、廊下の長椅子に、一人で座っていた。両手は、まだ信格の血で、赤黒く汚れていた。洗いに行く気にも、なれなかった。
手術室の扉の上で、赤いランプは、なかなか消えなかった。
同じ夜更け 同じ病院 院長室
手術を終えた院長が自分の部屋に戻ったのは、夜中の二時を回った頃だった。
院長は、手術着を脱ぎもせずに、机の上の電話の受話器を取った。指先が、かすかに震えていた。ダイヤルを回す。世田谷の、ある屋敷の番号だった。
呼び出し音が、長いあいだ鳴りつづけた。やがて、受話器の向こうで、低い、眠たげな声がした。
「……誰だ」
「夜分に、申し訳ございません。赤坂の、院長でございます」
受話器の向こうが、一瞬、静まり返った。
「力王山が、先ほど、こちらに運びこまれました。赤坂のナイトクラブで、腹を刃物で刺されまして。手術は、いま、済ませたところでございます」
院長は、受話器を握りしめたまま、相手の言葉を待った。
長い沈黙があった。やがて、受話器の向こうから、静かな声が返ってきた。
「そうか」
それだけだった。
院長は、何か言葉を継ごうとした。どの程度の傷なのか、助かる見込みはどれほどか、これからどうすればよいのか。けれど、その前に、相手の声が、ゆっくりと言った。
「……手は、尽くしてやれ」
少しの間があった。
「できる限りのことは、な」
電話は、そこで切れた。
院長は、受話器を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。それから、ゆっくりと受話器を置き、窓の外に目をやった。
師走の赤坂の夜空は、まだ、深く暗かった。
第四章「赤い送金、仕組まれたブック」は、ここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
上野の漬物屋から、新潟の港から、海の向こうへ送られつづけた金。力王山自身が運転して北へ送りだした、黒いベンツ。埠頭で、日本に来てから一度も人前で書かなかった「崔信格」の三文字を書き添えた筆。
板門店の雪の上で、白いシャツ一枚になって、もう誰にも届かない人の名を叫んだ背中。外套を掛けた熊木の「何も、見てません。先生」。
日本の娘を妻に迎え、「お優しいところです」と言われた男は、その娘の無邪気な問いに湯呑みを落とし、凍りはじめた川の向こうへ渡っていく秀貞を、車の中から帽子さえ取れずに見送りました。
そのあいだにも、天道の帳面は書きつづけられ、世田谷の座敷では「処分すべき狂犬」という言葉が、静かに口にされていました。大河原の受話器は、一度も取られませんでした。
そして十二月八日の夜。赤坂の地下の店の狭い通路で、見知らぬ若い男が、耳元で囁きます。
明日からは、最終章、第五章「白い密室の時間切れ」の投稿を始めます。
白い壁、白い天井、消毒液の匂い。運びこまれたのは、十四年前に「相撲は、もう無理です」と告げられた、あの赤坂の病院でした。
最低で、最高だった一人の男の、最後の日々です。どうか、最後まで、見届けてください。
『仮面の怪物 ~昭和の英雄と、見えない糸の群像劇~』を、引き続きよろしくお願いいたします。
木下店長




