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第87話 予兆

 昭和三十八年(一九六三年)十一月 東京・渋谷 力王パレス最上階


ひと月前に国立競技場で開かれた国際スポーツ大会の余韻が、まだ街のあちこちに残っていた。


翌年の本番を前に、世界の国々から選手を招いて開かれた、いわば五輪の予行演習だった。新しく造られた競技場の観客席には、日の丸の小旗が波のように揺れ、新聞はどれも、来年はいよいよ東京だ、と書きたてた。道玄坂の上の電信柱にも、五つの輪を描いた看板が、気の早い商店街の手で、いくつも括りつけられていた。


力王パレスの最上階の窓からは、その渋谷の街が一望できた。代々木のほうには、選手村に充てられる予定の土地が広がり、夜を徹して工事の灯りが瞬いている。首都高速の高架が、灰色の背骨のように、街の上を、ゆっくりと伸びていった。


信格は、窓辺に立って、その灯りを見下ろしていた。背後の応接椅子に、あの眼鏡の男が座っていた。


〈選手団のことでございますが〉


男は、穏やかな朝鮮の言葉で言った。


〈年が明けましたら、向こうの体育の委員会の方々が、下見にお見えになります。宿のこと、練習の場所のこと、競技場への足のこと。あなたに、ぜひ、すべてお任せしたいと〉


信格は、窓の外を見たまま、答えなかった。


〈お返事は、年内にいただけますでしょうか。将軍様も、楽しみにしておられます。お兄様も、お嬢様も、それから、あちらへ渡られたあの方も〉


男の声は、少しも調子を変えなかった。


信格の背中が、窓ガラスに映っていた。その背中の向こうで、代々木の工事の灯りが、規則正しく瞬いている。


来年の秋には、あの土地に、世界じゅうの選手たちが集まる。日の丸の小旗が、また波のように揺れる。その真ん中で、北の選手団の世話を焼く大和魂の英雄の姿を、日本じゅうの茶の間が見ることになる。


〈……年内には、返事をする〉


信格は、それだけ言った。


男は、満足げに頷いて立ちあがった。扉が閉まると、部屋の中には、窓の外の工事の音だけが、かすかに響いていた。


十一月二十三日 東京・赤坂 信格の新居


朝の居間に、受像機の灰色の光が揺れていた。


この朝、アメリカから初めて、宇宙に浮かぶ衛星を通じて、テレビの電波が日本に届くことになっていた。太平洋を越えて、生の映像が茶の間に流れる。その記念すべき最初の放送を見ようと、信格は珍しく早起きをして、律子と並んで受像機の前に座っていた。


ところが、ブラウン管に映しだされたのは、祝いの言葉ではなかった。


画面の向こうで、アナウンサーが、ひどく硬い声で原稿を読みあげていた。アメリカの大統領が、南部の町を車で回っている最中に、銃で撃たれて死んだのだという。続いて、オープンカーの後部座席で、若い大統領が隣の夫人の肩に崩れ落ちる、ぼやけた映像が流れた。沿道を埋め尽くした群衆が、何が起きたのかわからないまま、手を振りつづけていた。


律子が、口元に手を当てて、小さく声を漏らした。信格は、黙って画面を見ていた。


世界でいちばん偉い男だった。大勢の護衛に囲まれ、何万という群衆の歓声を浴び、白い歯を見せて手を振っていた。その男が、たった一発の弾で、あっけなく崩れ落ちていく。


「……撃たれるときは、あっけねえもんだな」


信格は、誰に言うでもなく呟いた。


律子が、驚いたように夫の横顔を見た。信格は、画面から目を離さなかった。オープンカーの後部座席の、崩れ落ちた男の背中を、じっと見つめていた。


同じ月の下旬 東京・浜町 信格のマンション


九州場所の中継が、浜町の部屋の受像機から流れていた。


信格は、長椅子に一人で座り、音を小さく絞った画面を眺めていた。福岡の土俵の上で、若い関取同士がぶつかりあっている。その取組の合間に、解説席の大きな男の顔が、画面の隅に映った。


桜富士だった。


穏やかな声で、若い力士の立ち合いを、一番一番、丁寧に語っている。桜富士が解説の席に座るようになってから、もう何年にもなる。その口から、力王山の名が出たことは、一度もなかった。


その日の結びの一番が終わったときだった。関脇に上がったばかりの若い力士が、自分より一回り大きな大関を、強引な小手投げで土俵に転がした。場内が、どよめきに包まれた。


アナウンサーが、解説席に水を向けた。


「横綱、いまの一番は、いかがでしたか」


桜富士は、少しのあいだ黙っていた。それから、静かに口を開いた。


「荒い相撲です。行儀のいい相撲ではない。ですがね、昔、こういう相撲を取る関脇が、一人おりましてな」


信格の手が、グラスを持ったまま、止まった。


「背負っておるものの重さが、全部、相撲に乗っておった。あんな相撲を取る男は、ほかにおりませんでした。わたしは、ああいう相撲が、好きなんですよ」


アナウンサーが、どなたのことですか、と訊いた。桜富士は、穏やかに笑って、それには答えなかった。


「いまの若いのも、ああなれるかもしれません。楽しみにしておりますよ」


画面が、土俵の俯瞰に切り替わった。


信格は、グラスを卓の上に置いた。それから、背広の内ポケットの上に、そっと手を当てた。二つに折った古い写真の角が、生地越しに、かすかに胸に触れていた。


十一月の終わり 浜町のマンション


秀貞からの手紙が届いたのは、その数日後のことだった。


大島が、薄い封筒を一通、黙って信格に手渡した。北の切手が貼られ、新潟の郵便局の消印が押されている。帰国船が港に戻るたびに、北から日本の同胞へ宛てた手紙が、まとめて運ばれてくるのだった。


信格は、居間の長椅子に座って、封を切った。


中には、粗い灰色の紙が一枚だけ入っていた。見慣れた秀貞の筆跡で、朝鮮の文字が、几帳面に並んでいる。


こちらは、本当に楽園です。毎日、白いお米をいただいております。皆さん、親切にしてくださいます。あの子とも、会うことができました。あの子は、元気で、立派に働いております。どうか、ご安心ください。あなたも、どうぞ、お体を大切に。


それだけだった。


信格は、手紙を、二度、三度と読み返した。秀貞の字だった。けれど、秀貞の言葉ではなかった。新潟の港で、帰国船に乗る人々に配られていた宣伝のビラと、同じ言葉が並んでいる。白いお米。親切な人々。楽園。


手紙の一番下に、ほかの行より少しだけ小さな字で、一行だけ、書き添えられていた。


こちらの川は、もう、凍りはじめました。今年は、あなたのお汁は、作れそうにありません。


信格は、その一行を、長いあいだ見つめていた。


白いお米を毎日いただいているのなら、牛の骨くらい、手に入らないはずはない。満州の明け方に、二人で話した、凍る川。浜町の台所で、秀貞が黙って煮てくれた、あの汁。


楽園ではない、と、秀貞は書いていた。誰にも気づかれないように、自分にだけわかるように。


信格は、手紙を四つに畳み、背広の内ポケットの、古い写真の隣にしまった。それから、卓の上のウイスキーの瓶を掴んで、そのまま口をつけた。


十二月初め 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場


その日の稽古が終わったあと、信格は、リングの片隅でマットを拭いていた熊木を呼んだ。


「寛人」


熊木は、雑巾を置いて、リングの縁に腰かけた信格の前に、膝をついた。


信格は、しばらく、熊木の顔を見下ろしていた。太い首。長い顎。叩きつけられても、叩きつけられても、静かに深くなっていく、あの目。


「来年の春になったら、お前を、アメリカへやる」


熊木は、顔を上げた。


「郷馬と同じだ。向こうで、一年か二年、揉まれてこい。お前の体なら、向こうの客にも売れる。名前も、こっちで考えておいてやる」


熊木は、何も言えなかった。


三年前、サンパウロからの飛行機の、窓もない荷物置き場の床に座らされていた。羽田で、銀座の仕立ての背広を着た郷馬が一等の席に乗りこんでいくのを、柱の陰から、鞄を抱えて見送った。お前には一生縁のねえもんだ、と、この男は言った。ブラジルの猿が、ハワイに行けると思うなよ、と。


「……ありがとうございます、先生」


熊木の声は、かすれていた。


「礼なんか、言うな」


信格は、ぶっきらぼうに言って、立ちあがった。それから、リングを下りかけて、ふと足を止めた。


「寛人」


「はい」


「欣ちゃんがな、いい顔だと言ったんだ。お前の顔をな。あの人の目は、確かだ」


信格は、振り返らずに、そう言った。それきり、何も言わずに、道場の戸口へ向かって歩いていった。


熊木は、リングの上に膝をついたまま、その大きな背中を見送っていた。


いつか、ぶっ殺す。その気持ちは、変わっていないはずだった。変わっていないはずなのに、熊木は、膝の上で握りしめた拳を、どうしても、ほどくことができなかった。


十二月七日 東京・上野 朝鮮人街の焼肉屋


上野の駅の裏手の、細い路地の奥に、その店はあった。


煤けた暖簾の向こうで、炭火の煙が、天井の低い店内に白く籠もっている。壁には、手書きの品書きが朝鮮の文字で貼られ、客たちが、日本語と朝鮮語の入り混じった言葉で、声高に話していた。


一番奥の席に、信格と張が、向かいあって座っていた。


信格は紋付ではなく、くたびれた鼠色の背広を着て、鍔の広い帽子を目深にかぶっていた。店の主人は、ひと目でこの客が誰かわかったはずだったが、何も言わずに、黙って炭火の七輪を運んできた。


網の上で、厚く切った牛の肉が、じゅうじゅうと音を立てていた。


「食え、勲夫」


信格は、焼けた肉を、次から次へと張の皿に放りこんだ。


「首位打者が、そんな細い腕でどうする。来年も、獲るんだろう」


「兄さん、もう、食べきれません」


張は、困ったように笑いながら、それでも箸を動かした。信格は、そんな張の顔を、目を細めて眺めていた。


ここでは、誰も、自分を長崎の百姓の倅だとは思っていない。大和魂の英雄だとも思っていない。煙の向こうで肉を焼いている客たちと、同じ言葉を、同じ訛りで話す、ただの男だった。


信格は、焼酎の杯を傾けながら、朝鮮の言葉で言った。


〈勲夫。お前は、来年、契約の更改だろう〉


〈はい〉


〈球団の連中に、舐められるなよ。お前の打った数字は、お前のもんだ。誰にも、譲るな〉


張は、箸を止めて、信格の顔を見た。


〈兄さん〉


〈なんだ〉


〈兄さんは、最近、少し、痩せましたね〉


信格は、杯を口元に運びかけた手を、宙で止めた。それから、ふっと笑った。


〈年だよ。俺も、もう四十だ〉


〈まだ、三十九でしょう〉


〈ふっ。細けえ奴だ〉


信格は、杯を干して、網の上の肉をひっくり返した。脂がはぜて、炭火の上で、小さな炎が上がった。


店を出たのは、夜の十時を回った頃だった。


路地の入口で、張は、信格に向かって、深く頭を下げた。


「ご馳走さまでした、兄さん。また、連れてきてください」


「ああ。正月が明けたら、また来よう」


信格は、張の頭を、大きな掌で乱暴に撫でた。それから帽子の鍔を引き下げ、路地の暗がりの向こうに待たせてあったキャデラックのほうへ、ゆっくりと歩いていった。


熊木が、運転席から降りて、後部座席の扉を開けた。


信格は、乗りこむ前に、一度だけ振り返った。路地の入口に、まだ張が立っていた。冬の夜風に吹かれながら、張は、もう一度、深く頭を下げた。


信格は、片手を軽く挙げて、それに応えた。それから後部座席に身を沈め、扉が閉まった。


「浜町へやれ」


キャデラックが、路地を離れて、上野の大通りへ出ていく。年の瀬の街には、早くも歳末の売り出しの赤い幟がはためき、店先のスピーカーから、流行りの歌が流れていた。


信格は、窓の外を流れる灯りを、ぼんやりと眺めていた。背広の内ポケットには、二つに折った古い写真と、四つに畳んだ秀貞の手紙とが、並んで入っていた。


年内に返事をすると、あの眼鏡の男に約束した。けれど、どう返事をすればいいのか、信格には、まだ、わからなかった。


「寛人」


「はい」


「明日の晩は、赤坂だ。大和の新しい後援会の連中と、飲む約束がある。そのあとで、どこか、知らねえ店にでも寄ってみるか」


「はい、先生」


信格は、それきり口を閉じた。


キャデラックは、師走の夜の街を、浜町へ向かって走っていった。


翌日は、昭和三十八年の、十二月八日だった。



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