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第86話 離別

 昭和三十八年(一九六三年)九月 東京・浜町 信格のマンション


九月の半ばの夜、浜町の部屋の扉を叩く音がしたのは、九時を少し過ぎた頃だった。


扉を開けた信格は、そこに立っている人の姿を見て、しばらく言葉を失った。


秀貞だった。


地味な灰色の着物に、くたびれた羽織を重ねている。両手に、風呂敷で包んだ小さな鍋を抱えていた。この部屋に秀貞が来たのは、初めてのことだった。信格がここを借りてから、もう何年にもなるというのに。


〈……どうして、ここが〉


信格は、朝鮮の言葉で言った。


〈大島さんに、教えてもらいました〉


秀貞も、朝鮮の言葉で答えた。それから、少しだけ笑った。


〈上がっても、いいですか〉


信格は、黙って、体を脇へ退けた。


秀貞は、台所に入ると、風呂敷を解き、持ってきた鍋を火にかけた。蓋の隙間から湯気が立ちのぼり、やがて部屋じゅうに、牛の骨を煮出した汁の匂いが広がっていった。唐辛子と、葱と、にんにくの匂い。


信格は、居間の長椅子に座ったまま、その匂いを嗅いでいた。


角界に入ったばかりの頃、兄弟子たちにちゃんこを残してもらえず、腹を空かせて夜の街をさまよった。そのとき、朝鮮人街の路地の奥の小さな食堂で、オモニと呼んでいた女主人が、黙って出してくれたのが、この汁だった。涙をこらえながら、熱い汁を一滴残らず啜った、あの夜の匂いだった。


秀貞は、どんぶりを二つ、卓の上に並べた。白い飯の上に、骨の髄まで煮出した汁がなみなみと注がれ、刻んだ葱が浮いている。


〈食べてください〉


信格は、匙を取った。


一口すすると、熱さが喉を焼き、胃の腑に、ゆっくりと沁みていった。信格は、何も言わずに、二口目をすすった。三口目を。秀貞は向かいに座って、自分のどんぶりには手をつけずに、信格が食べるのを見ていた。


どんぶりが空になるまで、二人とも、一言も口をきかなかった。


信格が匙を置くと、秀貞は、膝の上で両手を重ね、静かに言った。


〈来月の、十日の船で、帰ります〉


信格は、空のどんぶりを見下ろしていた。


〈新潟から。あの子のいる、咸興のほうへ〉


秀貞は、着物の懐から、一枚の写真を取り出した。白い壁の前に立たされた、作業着の娘。何度も何度も手に取られて、写真の四隅は、すっかり擦り切れていた。


〈先月、あの眼鏡の人が、目黒に来ました〉


秀貞は、写真を見つめたまま言った。


〈あの子のそばに、いてやったらどうか、と。日本にいても、あなたはもう、あの人の傍にはいられないでしょう、と。あちらへ行けば、あの子と一緒に暮らせるように、計らってくださるそうです〉


〈罠だ〉


信格は、低く言った。


〈お前が向こうへ渡れば、あいつらは、もう一本、俺の首に紐をかけられる。兄貴と、娘と、それに、お前だ〉


〈わかっています〉


秀貞は、少しも声を揺らさなかった。


〈わかっていて、行くんです〉


信格は、顔を上げて、秀貞を見た。


秀貞は、満州の娼館で初めて会った夜と、同じ目をしていた。何かを握りしめていないと、どこかへ流されてしまいそうな、それでいて、決して手を離さない女の目だった。


〈わたしは、十六年、あの子の顔を見ていません。あなたが置いていくお金を、海の向こうへ送ることしか、してやれませんでした。それが届いているのかどうかも、わからないまま〉


秀貞は、写真を、両手で胸に押し当てた。


〈もう、送るだけは、嫌なんです〉


部屋の中が、静まり返った。窓の外を、隅田川の水音が流れていく。


信格は、何か言おうとした。行くな、と言おうとした。けれど、その言葉は、喉のところで固い石のように詰まって、出てこなかった。


行くなと言って、引き止めて、それでどうするのか。赤坂には、律子がいる。目黒の離れで、また、帰らない男を待たせるのか。


〈……一緒に、来ますか〉


秀貞が、小さな声で言った。


信格は、答えなかった。


答えられないことを、秀貞は知っていた。知っていて、それでも一度だけ、訊いてみたかったのだろう。秀貞は、ほんの少しだけ笑った。泣いているようにも見える笑い方だった。


〈冗談です〉


秀貞は立ちあがり、二つのどんぶりを台所へ運んで、丁寧に洗った。鍋の残りを小さな器に移し替えて、戸棚にしまった。


〈明日の朝も、温めて食べてください〉


秀貞は羽織の襟を直し、玄関で草履を履いた。それから振り返り、居間の長椅子に座ったままの信格に向かって、言った。


〈向こうに着いたら、手紙を書きます。あの子のことも、書きます〉


秀貞は、深く頭を下げた。扉が、静かに閉まった。


信格は、長いあいだ、長椅子から動けなかった。台所の戸棚から、まだかすかに、あの汁の匂いが漂ってきていた。


昭和三十八年(一九六三年)十月十日 新潟港


秋晴れの、よく澄んだ朝だった。


昭和三十四年の暮れに始まった帰還事業は、この年で四年目を迎えていた。日本の赤十字と北の赤十字とが結んだ協定のもと、人道のための事業として、日本の政府も、新聞も、与党も野党も、こぞってこれを後押しした。その後押しをした内閣の閣僚の中には、岸本の名も連なっていた。ふた月前、大河原の屋敷の座敷で、北との繋がりを国の恥だと言い放った、あの男である。


北は、地上の楽園だと宣伝されていた。医者にかかるのも、学校へ通うのも、ただである。仕事も、住む家も、国が保証してくれる。日本で貧しさと差別に喘いでいた多くの同胞たちが、その言葉に望みを託して、新潟の港から海を渡っていった。最初の年からこの秋までに、その数は、もう七万を超えていた。


埠頭には、帰国船を見送る人々が、黒山の人だかりを作っていた。


倉庫の壁には、地上の楽園へ、と大きく書かれた横断幕が掲げられ、赤い旗が何本も風にはためいている。楽隊の太鼓と喇叭が、勇ましい調べを繰り返していた。埠頭の端に張られた天幕の下では、赤十字の腕章をつけた係員たちが、帰還する人々の名簿を一人ずつ読みあげ、本当に自分の意思で渡るのかを、形ばかりに確かめていた。


船に乗りこむ人々は、肩から襷をかけ、両手に大きな風呂敷包みを提げて、長い列を作っていた。万歳、万歳、という声が、朝鮮の言葉で、埠頭のあちこちから湧きあがっていた。船は、北の東の海岸にある、清津という港へ向かうのだという。


その人だかりから少し離れた倉庫の脇に、黒いキャデラックが一台、停まっていた。


運転席には、熊木が座っていた。後部座席の信格は、鍔の広い帽子を目深にかぶり、黒眼鏡をかけて、窓の外を見ていた。この顔が埠頭の人だかりの中に現れれば、どうなるかは、わかりきっていた。だから、車からは降りなかった。降りられなかった。


熊木は、ハンドルに両手を置いたまま、バックミラー越しに、信格の様子をうかがっていた。


昨夜、浜町の部屋で、新潟まで車を出せと言われたとき、熊木は何も訊かなかった。三国峠を越える長い夜道のあいだ、後部座席からは、一度も拳が落ちてこなかった。


「……あそこだ」


信格が、低く言った。


熊木は、信格の視線の先を追った。乗船を待つ長い列の、真ん中あたりに、灰色の着物に羽織を重ねた、小柄な女の姿があった。


女は、小さな風呂敷包みを一つだけ胸に抱え、まっすぐ前を見て、列とともに、ゆっくりと天幕の前へ進んでいく。赤十字の係員が名簿の名を読みあげると、女は小さく頷き、それから、タラップのほうへ歩いていった。


周りの人々が、地上の楽園へ向かう喜びに頬を紅潮させ、万歳を叫んでいるなかで、その女だけが、少しも笑っていなかった。楽園などではないことを、女は、知っているようだった。知っていて、それでも、娘のそばへ行くためだけに、その船に乗ろうとしていた。


女がタラップの下まで来たとき、ふと、足を止めた。それから、振り返った。


人だかりの頭越しに、倉庫の脇に停まっている黒い車を、女はまっすぐに見ていた。この距離では、車の中の顔までは見えないはずだった。それでも女は、その車から、目を逸らさなかった。


やがて女は、胸の風呂敷包みを抱いたまま、車に向かって、深く、深く、頭を下げた。


信格は、黒眼鏡の奥で、その姿を見ていた。


窓を開けようとして、やめた。手を挙げようとして、やめた。帽子を取ることさえ、できなかった。ただ、膝の上で、太い拳を握りしめていた。


女は顔を上げると、もう二度と振り返らずに、タラップを上っていった。


そのときだった。


倉庫の陰から、灰色の外套を着た男が一人、首から提げた小さな写真機を胸の前に構えて、タラップのほうへシャッターを切っているのが、熊木の目に入った。男は、タラップを上っていく女の後ろ姿を何枚か撮ると、今度はゆっくりと体の向きを変え、倉庫の脇に停まっている黒い車に、写真機を向けた。


後部座席で、信格の体が、跳ねるように動いた。


「あの野郎」


扉の把手に、手がかかった。熊木は、とっさに運転席から身を乗りだし、後部座席の信格の腕を、両手で掴んだ。


「先生」


「離せ」


「先生。ここで降りたら、全部、終わりです」


信格の腕は、熊木の両手の中で、鉄の棒のように硬くこわばっていた。その太い腕が、ほんの一瞬、熊木を振り払おうとして力をこめ、それから、ゆっくりと、力を失っていった。


灰色の外套の男は、写真機を下ろし、何事もなかったように、倉庫の陰へ姿を消した。


熊木は、信格の腕を離した。信格は、後部座席に深く沈みこみ、黒眼鏡を外して、片手で目元を覆った。


やがて、船の汽笛が、一度だけ、低く、長く鳴った。


楽隊の太鼓と喇叭が、ひときわ高く鳴り響き、埠頭の人々が、一斉に万歳を叫んだ。赤い旗が、秋の青い空に、ちぎれんばかりに振られている。灰色の大きな船が、ゆっくりと岸壁を離れ、北の海へ向かって、舳先を回していった。


信格は、目元を覆った手を、下ろさなかった。


「……帰るぞ」


かすれた声だった。


熊木は、黙ってエンジンをかけた。バックミラーの中で、灰色の船が、だんだんと小さくなっていく。熊木は、その船が見えなくなるまで、ゆっくりと車を走らせた。


三国峠を越えるまで、後部座席からは、一度も声がしなかった。拳も、落ちてこなかった。ただ、峠の頂のあたりで一度だけ、熊木の知らない節の鼻歌が、ほんの短く聞こえて、すぐに途切れた。


その後


楽園の門をくぐった人々を待っていたのは、宣伝とはかけ離れた暮らしだった。


食べるものも、着るものも、薪さえも足りなかった。日本から渡ってきた者たちは、帰国者と呼ばれて、土地の者たちから一段低く見られた。鉱山や工場の、もっとも辛い仕事に回され、日本にいた頃の暮らしぶりや、日本に残してきた身内のことを、いつも誰かに見張られていた。不平を口にした者が、ある朝、家族ごと姿を消すこともあった。


それでも、日本に残る同胞たちのもとへは、海を越えて、手紙が届きつづけた。


こちらは、本当に楽園です。食べるものにも困りません。皆、親切にしてくれます。あなたたちも、一日も早く、こちらへいらっしゃい。


どの手紙にも、同じような言葉が、同じような筆の運びで並んでいた。書いた者たちが、どんな部屋で、誰に見張られながら、その言葉を書かされていたのかを、日本で手紙を受け取った者たちは、まだ知らなかった。


秀貞からの手紙が浜町の部屋に届いたのは、それからひと月あまりが過ぎた、十一月の終わりのことだった。



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