第85話 狂犬
昭和三十八年(一九六三年)八月 東京・世田谷 大河原の屋敷
夜の十時を回っても、座敷の空気は昼の熱を孕んだまま、重く淀んでいた。
障子は閉め切られ、縁側の外の闇で、虫の声が絶え間なく鳴いている。床の間の掛け軸の前に大河原が座り、その左右に、松木、岸本、佐々川が膝を並べていた。少し離れた下座には、岡田が、着流しの膝の上に両の拳を置いて座っている。美園ゆりの東京公演に付き添って、たまたま上京していたところを、夕方になって呼びだされたのだった。
座敷の隅、襖の脇の暗がりに、天道が正座していた。誰も、天道のほうを見ようとはしなかった。
座の真ん中の畳の上には、北の画報が、あの見開きの頁を開いたまま置かれていた。大理石の広間の、黒い車。硝子の額の中の、二枚の書。崔信格、という三文字。
最初に口を開いたのは、岸本だった。
「北の将軍に萬歳を書き、本名を添えて、車を献上した。南の議長の手を握り、競技場の金を出すと約束した。そのうえ、来年の五輪に、北の選手団を連れこもうとしておる」
岸本は、扇子の先で、画報の写真を軽く叩いた。
「これが表に出れば、どうなるか。国会で、野党が鬼の首を取ったように騒ぐ。日本の大和魂の英雄は、北の手先だったと、世界じゅうの新聞が書く。五輪の前にだ。わしらが十年かけて育ててきたものが、一夜で、国の恥になる」
「表には、出させません」と、松木が、眼鏡を指で押しあげながら言った。「うちの新聞も、局も、一行たりとも書かせはしません。ですが、ほかの新聞までは、押さえきれませんな。香港あたりからこういうものが出回れば、いずれ、どこかの週刊誌が嗅ぎつける」
佐々川は、何も言わずに、手の中の盃を回していた。大河原は、目を閉じて、三人の言葉を聞いていた。
「大河原の親分さん」
不意に、下座から岡田の声がした。座敷の空気が、ぴんと張りつめた。岡田は、膝の上の拳を、ゆっくりとほどいた。
「わしは、力王の味方をするつもりはありまへん。あの男が、どれだけ無茶な暴れ方をしてきたかは、わしが一番よう知っとる。せやけどな」
岡田は、畳の上の画報に、目を落とした。
「あいつは、好きで北に尻尾を振っとるわけやない。北の村に兄貴がおって、娘がおる。それを向こうに握られて、脅されとるだけや。ベンツも、萬歳の書も、娘の命と引き換えに、無理やり書かされたもんやないんか。わしには、そうとしか見えまへん」
誰も、すぐには答えなかった。虫の声が、障子の向こうで、ひときわ高くなった。
やがて、大河原が、目を開けた。
「だから、危ないのだ」
低い、静かな声だった。
「岡田。お前の言うとおりだろう。力王は、脅されておる。好きで北に頭を下げておるわけではない。それは、わしにもわかっておる」
大河原は、畳の上の画報を、指先で、ゆっくりと閉じた。
「だがな。脅されておる男というのは、紐のついた操り人形と同じだ。北が紐を一本引けば、あの男は、どこへでも踊りでる。兄貴の命が惜しいと言えば、五輪の真ん中で北の旗を振る。娘の命が惜しいと言えば、平壌へも飛ぶ。そうなったとき、あの男は、自分ではもう止まれん」
大河原は、岡田の顔を、まっすぐに見た。
「脅されておるかどうかは、関係ない。北に首根っこを掴まれた男が、五輪の前の日本で、大和の英雄の顔をしておる。それだけで、十分だ」
岡田は、何も言い返さなかった。言い返す言葉を、持っていなかった。
座敷の隅の暗がりで、天道は、畳に目を落としたまま、身じろぎもしなかった。膝の上に置いた手の下で、背広の内ポケットの帳面が、心臓の鼓動にあわせて、かすかに揺れていた。
去年の二月、新橋のガード下の喫茶店で、自分は、本人は、たぶん知りません、と口にした。女が、自分の金を、自分の子供に送っているだけです、と。あのとき、なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。いま、この座敷で、同じことを言える口を、天道は持っていなかった。
「それで」と、佐々川が、ようやく盃を置いた。「どうなさるおつもりで」
大河原は、すぐには答えなかった。床の間の掛け軸を、見上げていた。和、という一文字。
「看板は、掛け替える」
大河原は、言った。
「松木。郷馬は、使えるな」
「使えます」と、松木は、即座に答えた。「アメリカで名を売り、客の掴み方も覚えた。何より、あの男は、余計なことを言いません。言われたとおりに動いて、言われたとおりに笑う。それに、生まれも育ちも、まっとうな日本人です」
「ならば、それでいい」
大河原は、膝の上で指を組んだ。
「力王は、処分すべき狂犬だ。だが、わしらが手を下すことはない。狂犬というのはな、放っておけば、いずれどこかで、勝手に誰かに噛みつく。そして、勝手に、どこかで転ぶ。そのときに、後始末の段取りさえ整えておけばよい」
岸本が、扇子を閉じて、頷いた。佐々川は、黙って盃を干した。松木は、眼鏡を外して、ハンカチで丁寧に拭きはじめた。
岡田だけが、畳の上の、閉じられた画報を見つめていた。
そのとき、廊下の奥で、電話の鳴る音がした。しばらくして、女中が、襖の外に膝をついた。
「旦那様。浜町の、力王山先生から、お電話でございます。今夜のうちに、どうしても旦那様にお話ししたいことがあると」
座敷の中が、凍りついたように静まり返った。大河原は、眉一つ動かさなかった。
「留守だと言え」
「……かしこまりました」
女中の足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。やがて、受話器に向かって詫びる女中の声が、かすかに聞こえ、それきり、静かになった。
同じ夜 東京・浜町 信格のマンション
受話器の向こうで、女中の声が、申し訳ございません、旦那様は今夜はお留守でございまして、と繰り返していた。
信格は、受話器を握りしめたまま、窓の外を見ていた。隅田川の向こう岸の灯りが、暗い水の上で揺れている。
大河原に、話したいことがあった。
北のことを、打ち明けるつもりでいた。兄を握られていること。娘の写真を突きつけられたこと。五輪の選手団の世話役を引き受けなければ、兄の一家が山奥へ移されると脅されていること。どうすればいいのか、あの男なら、知恵を貸してくれるかもしれない。角界を追われた自分を拾いあげ、プロレスの英雄に仕立てあげたのは、あの男なのだ。
留守だという。この十年、大河原の屋敷に電話をかけて、留守だと言われたことは、一度もなかった。
「……そうか」
信格は、受話器を置いた。
それから、卓の上のウイスキーの瓶を掴み、壁に向かって投げつけた。瓶は、壁に掛けてあった額縁に当たって、硝子ごと砕け散った。額縁の中には、去年、松木の局から贈られた、三友ゴールデン・アワーの視聴率一位の感謝状が入っていた。
琥珀色の酒が、壁を伝って、ゆっくりと流れ落ちていった。
同じ夜更け 東京・世田谷 大河原の屋敷
客が帰っていったのは、夜中の一時を過ぎた頃だった。
最後に座敷を出たのは、岡田だった。岡田は、玄関の上がり框で草履を履きながら、見送りに出た大河原を振り返らずに、ぽつりと言った。
「大河原の親分さん。お嬢が、悲しみますわ」
大河原は、答えなかった。
岡田は、それ以上何も言わずに、夏の夜の闇の中へ出ていった。待たせてあった車のエンジンの音が、坂の下へ遠ざかっていった。
天道も、とうに帰っていた。
大河原は、ひとり座敷に戻り、床の間の前に腰を下ろした。畳の上には、閉じられた北の画報が、そのまま残されていた。
大河原はそれを手に取り、もう一度だけ、あの見開きの頁を開いた。大理石の広間の、黒い車。硝子の額の中の、太く力強い筆の跡。崔信格、という三文字。
しばらく、大河原はその三文字を見つめていた。それから静かに画報を閉じ、床の間の脇の文箱に収めて、蓋をした。
それから大河原は、座敷の隅の電話の受話器を取り、赤坂の番号を回した。
呼び出し音が、長く鳴った。やがて、寝入りばなを起こされたらしい、くぐもった男の声が出た。
「わしだ。夜分に、すまんな」
受話器の向こうで、男が慌てて居住まいを正す気配がした。
「……いや、何もない。ただ、あの男の体は、これからも、そちらに預けておく。何かあれば、真っ先に、わしに知らせてくれ」
受話器の向こうで、男は、かしこまりました、とだけ答えた。
受話器を置くと、大河原は、もう一度だけ、文箱の蓋に手を置いた。
狂犬は、放っておけばいい。いずれ、勝手に、どこかで転ぶ。
障子の外では、虫の声が、もう、ほとんど聞こえなくなっていた。




