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第84話 帳面

 昭和三十八年(一九六三年)八月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場


八月の昼下がりの道場は、窓を全部開け放っても、蒸し風呂のような暑さだった。


リングの上では、若い衆たちが受身の稽古を繰り返している。マットに背中が叩きつけられるたびに、汗が飛沫になって飛び散った。信格はリングの縁に腰かけ、右膝に巻いた包帯の上から、団扇で風を送っていた。覆面の男に締めあげられた膝は、三月経っても、まだ時おり疼いた。


天道が、リングの脇に近づいてきて、帽子を取った。


「オヤジ。今日の午後は、ちょいと抜けさせてもらいます」


「どこへ行く」


「国のおふくろが、出てきてましてね。上野の宿まで、顔を見に」


信格は、団扇を止めて、天道の顔を見た。


天道は、山形の生まれだと言っていた。十年近く一緒にいて、天道の口から母親の話が出たのは、これが初めてだった。


「……そうか」


信格は、それきり何も言わなかった。天道は一礼して、道場を出ていった。


その背中が戸口の向こうに消えると、信格は、リングの上で受身を取りそこねた若い衆の頭を、団扇の柄で思いきり打ち据えた。若い衆は、額を押さえてうずくまった。信格は、自分がなぜそうしたのかわからないまま、団扇を床に放り投げた。


この頃、天道の姿が見えないことが、増えていた。


同じ日の午後 東京・世田谷 大河原の屋敷


座敷の障子は開け放たれ、庭の竹の葉が、強い日差しの中で、白く光っていた。蝉の声が、屋敷を包むように降りしきっている。


大河原は、床の間を背にして座り、向かいに正座した二人の男を見ていた。一人は、地味な背広の、あの目立たない顔の公安の男。もう一人は、天道だった。


天道の膝の前には、使い古した黒い帳面が、一冊置かれていた。


表紙の角は擦り切れ、綴じ糸は何度も繕った跡がある。横浜の港を出てから、十年近く、天道が肌身離さず持ち歩いてきた帳面だった。これまで大河原のもとへ届けられてきたのは、いつも、誰かがこの帳面を清書した綴りのほうだった。今日、大河原は、原本を持ってこい、と言った。


「見せてもらおうか」


天道は、帳面を両手で取りあげ、大河原の前に差しだした。大河原は、それを受け取ると、膝の上で、ゆっくりと頁を繰りはじめた。


十年分の、信格の暮らしだった。日付と、場所と、会った相手の名前。どこで誰を殴ったか。誰に金を渡したか。ときおり、朝鮮の言葉で書きつけられた、短い走り書き。


大河原の指が、ある頁で止まった。


『一月某日。板門店。


力王山、境界線の前にて外套と上着を脱ぎ、北へ向かって何事か叫ぶ。


風強く、言葉は聞き取れず。日本語にあらざる様子』


大河原は、その一行を、指先でなぞった。


「様子、か」


「聞き取れなかったものは、聞き取れなかったと書いております」と、天道は、畳に目を落としたまま答えた。


大河原は、何も言わずに頁を繰った。


『同日夜。ホテルにて、姪と称する女と面会。約二時間。


情報機関の手配。記者には伏せる。


女、帰り際に封筒を抱える』


『二月某日。浜町の別宅。北系の団体の幹部、再訪。


来訪時、四角い包みを持参。帰りは手ぶら。


同夜一時頃、力王山、単身にて目黒の旧宅へ。


離れに住む満州以来の女のもとを訪ねる。数分で出る』


大河原は帳面を閉じ、膝の上に置いた。


「南の情報機関の手を通して、ソウルの姪に、毎月、金を送っておる」


公安の男が、手元の綴りを繰りながら、淡々と言った。


「それとは別に、目黒の女が、上野の漬物屋から、もう何年も北へ金を送りつづけております。こちらは、新潟の港から、帰国船に乗せて。去年の四月には、力王山本人が、自分の手でベンツを一台、同じ港から北へ送りだしました」


男は、背広の内ポケットから、茶封筒を一つ取り出した。


「それから、これが、先週、香港を経由して手に入りました」


封筒から出てきたのは、一冊の薄い画報だった。表紙には、天道にも読める朝鮮の文字が、赤い色で大きく刷られている。北の国が、海外の同胞に向けて出している、宣伝用の雑誌だった。


公安の男は、折り目のついた頁を開き、大河原の前の畳の上に置いた。


見開きの頁いっぱいに、一枚の写真が刷られていた。


天井の高い、大理石の広間だった。その中央に、黒く光る大きな乗用車が一台、赤い絨毯の上に据えられている。ボンネットの先には、銀色の星の飾り。そして、車の脇に立てられた硝子の額の中に、二枚の書が収められていた。


一枚目には、太く、力強い筆で、将軍の名と、萬歳の二文字。左下に、力王山、という署名。その下に、さらに三文字。


崔信格。


写真の下には、朝鮮の文字で、短い説明が添えられていた。公安の男が、それを日本語に読み下した。


「日本に住む同胞の英雄、力道の王、崔信格氏より、敬愛する将軍へ」


座敷の中が、しんと静まり返った。蝉の声だけが、障子の外で、狂ったように鳴きつづけていた。


天道は、畳の上の写真を見下ろしていた。


去年の四月、新潟港の倉庫の陰に、この公安の男が立っていたことを、天道はあとになって聞かされていた。けれど、硯の墨がまだ乾ききっていなかったあの紙に何が書かれていたのかまでは、天道も知らなかった。


崔信格。十年近く、毎日のようにその男の顔を見てきた。その男が、自分の手で、その名を書いたのだ。


「それと、もう一つ」


公安の男は、画報を閉じずに、別の綴りを繰った。


「来年の五輪に、北が選手団を送りこもうとしておるという話は、ご存じのとおりです。向こうの体育の委員会が、こちらの北系の団体を通じて、受け入れの段取りを探っております。その世話役を、力王山が買って出るつもりでいる、と。団体の中にいる、こちらの耳から、そう報せてまいりました」


大河原の目が、初めて、わずかに動いた。


「五輪に、か」


「はい。選手団の宿の手配から、競技場への送り迎えまで。日本の英雄が、北の選手たちの面倒を見る。向こうにとっては、これ以上の宣伝はありません」


大河原は、しばらく何も言わなかった。膝の上の黒い帳面に片手を置いたまま、床の間の掛け軸を見上げていた。墨で書かれた、大きな一文字。和、という字だった。


ふた月前の、虎ノ門のホテルの宴会場を、大河原は思い出していた。色打掛の娘の隣で、ゆりの歌に聞き入っていた男の横顔。牙は抜けましたな、と佐々川が言い、自分は満足げに盃を干した。家庭を持った男は、もう暴れはせん、と。


国の威信を賭けた五輪だった。首都高速も、新幹線も、競技場も、ホテルも、すべてはあの十五日間のために、この国が身を削って造り替えているものだった。その祭りの真ん中に、北の旗を担いで乗りこんでこようとしている男がいる。それも、自分たちが十年かけて、大和魂の英雄に仕立てあげてきた男が。


「……前に、お前は、天道に言ったそうだな」


大河原は、公安の男に目を移した。


「わしが、たぶん、という言葉が嫌いだと」


公安の男は、黙って頭を下げた。


「もう、たぶん、ではないな」


大河原は、黒い帳面を閉じたまま、天道の前に押し戻した。


「これは、お前が持っておれ。まだ、要る」


天道は、両手で帳面を受け取った。帳面は、来たときよりも、ずっと重く感じられた。


大河原は、障子の外の庭へ、目をやった。


「松木を呼べ。それから、岸本と、佐々川もな。今夜のうちにだ」


同じ日の夕方 世田谷の屋敷の門の外


門を出ると、西日が、坂の下の家並みを赤く染めていた。


天道は、帳面を背広の内ポケットに押しこみ、坂を下りはじめた。蝉の声が、背中を追いかけてくるように降りしきっていた。


坂の途中で、天道は、立ち止まった。


国のおふくろが出てきている、と、自分は言った。母親など、もう十五年も前に、横浜の港の病院で死んでいる。あの男は、それを知らない。知らないまま、そうか、とだけ言った。


天道は、内ポケットの上から、帳面に手を当てた。


十年分の、あの男の暮らしが、そこにあった。聞き取れなかったものは、聞き取れなかったと書いた。わからないことは、わからないと書いた。事実だけを書いてきた。それが、自分の決めごとだった。


けれど、あの画報の写真の中の三文字は、自分の帳面のどこにも、書かれていなかった。


天道は、坂の下へ向かって、また歩きだした。赤い西日の中に、天道の長い影が、坂道の上に、まっすぐ伸びていた。



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