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第83話 婚礼

 昭和三十八年(一九六三年)六月 東京・浜町 信格のマンション


婚礼の朝、梅雨の晴れ間の白い陽が、隅田川の川面に、眩しく照り返していた。


信格は、寝室の姿見の前に立っていた。この日のために京都の老舗に誂えさせた黒羽二重の紋付が、衣桁にかけられている。熊木は、その紋付を両手で捧げ持ったまま、信格が袖を通すのを待っていた。右の膝には、覆面の男に締めあげられた痛みが、まだ鈍く残っているはずだった。


「……寛人」


信格は、鏡に映る自分の顔を見つめたまま、低く言った。


「そこの、古いほうの紋付を取れ」


熊木は、衣桁の脇に掛けてあった、袖口の擦り切れかけた紋付を取って差し出した。信格はその内ポケットに太い指を差し入れ、二つに折った古い写真を取り出した。表は見ずに、裏返したまま、新しい紋付の内ポケットに移し替える。


熊木は、その写真の角を、前にも一度だけ見たことがあった。毛布を掛けた夜、長椅子で眠る信格の胸元から覗いていた、あの角だった。


信格は、熊木が見ていることに気づいていたはずだったが、何も言わなかった。黙って新しい紋付に袖を通し、帯を締めさせ、袴の紐を結ばせた。


「どうだ」


鏡の中の自分に向かって、信格は言った。熊木は、鏡越しに信格の顔を見た。いつもリングに上がる前に見せる、白い歯を見せた笑顔の用意が、まだ整っていない顔だった。


「……立派です、先生」


「ふっ」


信格は鼻で笑い、それから一度、大きく息を吐いた。


同じ日 東京・虎ノ門 ホテル大宴会場


披露宴の会場は、虎ノ門に去年開業したばかりの、白い外壁の大きなホテルの宴会場だった。


二千人近い招待客が、金糸の刺繍のテーブルクロスをかけた円卓を埋め尽くしている。政財界の重鎮に、相撲協会の理事たち、映画会社の社長、銀幕のスター、流行歌の歌手、新聞社の幹部、そして全国の興行主たち。会場の後方には、松木の局のテレビカメラが四台据えられ、その模様は夕方の特別番組として、日本じゅうの茶の間に流されることになっていた。


高砂の席に、紋付袴の信格と、白無垢から色打掛に着替えた律子とが並んで座っている。仲人の席には、松木夫妻が収まっていた。


来賓の祝辞が延々と続くあいだ、信格は神妙な顔で、一人一人に頭を下げていた。隣の律子は、緊張のせいか顔色が白く、膝の上で重ねた手を、ときおりそっと握り直している。信格は、そのたびに、律子の手元へ目をやった。ひと月前の朝、割れた湯呑みの破片を拾っていた指の先に、まだ小さな傷の跡が残っていた。


会場の中ほどの円卓に、桜富士の姿があった。


信格がその姿を見つけたのは、祝辞が一段落して、来賓たちが高砂の席に挨拶に押し寄せてきたときだった。黒の紋付を着た桜富士は、人の波が引くのをじっと待ってから、最後に、ゆっくりと高砂の席の前に進み出た。


「力王。おめでとう」


「……欣ちゃん」


桜富士は、律子に向かって、丁寧に頭を下げた。


「奥さん。こいつは、ひどい男ですが、根は寂しがりです。どうか、よろしく頼みます」


律子は目を丸くし、それから小さく微笑んで、深々と頭を下げ返した。信格は何か言い返そうとしたが、言葉にならなかった。桜富士は、そんな信格の顔を見て、からりと笑い、席へ戻っていった。


その少し後ろの円卓には、背広姿の張がいた。その夜も後楽園で試合があるというのに、昼の披露宴にだけ、無理を言って駆けつけてきたのだった。張は、誰とも口をきかずに、皿の料理にほとんど手をつけないまま、高砂の席の信格を、じっと見つめていた。信格と目が合うと、張は、少しだけ頭を下げた。信格は、その張に向かってだけ、白い歯ではない、ほんのわずかな笑みを返した。


宴の半ばには、美園ゆりが壇上に上がった。お兄ちゃんのために、と前置きして、ゆりが祝いの歌を歌いはじめると、会場の二千人が、しんと静まり返った。テレビカメラが、ゆりの横顔から、高砂の席の信格の顔へと、ゆっくり動いていく。信格は、ゆりの歌を聞きながら、膝の上で拳を握りしめていた。


会場の一番後ろ、テレビカメラの死角になる柱の陰の円卓に、岡田が座っていた。


神戸から来た親分の顔が、婚礼の中継に映りこむわけにはいかない。岡田自身がそれを承知していて、松木の秘書が上座の席を勧めにきたときも、手を振って断ったのだった。


ゆりが歌い終えて壇上で頭を下げると、岡田は、誰よりも先に、大きな掌で拍手を送った。それから、高砂の席の信格に目を移した。色打掛の娘の隣で、膝の上で拳を握りしめたまま、ゆりの歌の余韻に身じろぎもせずにいる男の横顔を、岡田は、長いあいだ眺めていた。


「よかったなあ、力王」


岡田は、誰に聞かせるでもなく呟き、目を細めて盃を干した。


同じ宴の上座 来賓席の一角


会場の喧騒から少し離れた上座の一角で、大河原と岸本、佐々川の三人が、並んで盃を傾けていた。仲人を務める松木も、ゆりの歌のあいだだけ高砂の席を外して、この卓に腰を下ろしている。


「羽田からの首都高速も、いよいよ急ぎの工事に入ったそうですな」と、佐々川が、声を落として言った。「それに競技場の周りの道路、新幹線の線路、ホテルが十いくつ。来年の五輪までに、この国は丸ごと造り替わる」


「道路が延びれば、白い線も延びる」と、岸本が、盃を傾けながら笑った。「世間じゃ、あの白線が一本引かれるたびに、佐々川さんの懐に金が落ちるんだと言っとるそうじゃないか」


「噂は、噂ですよ」


佐々川は、からからと笑った。


「わたしが儲けるのは、水の上の舟だけですよ。陸のことは、皆さんにお任せします」


そう言いながら、佐々川の目は、少しも笑っていなかった。噂が本当かどうかなど、誰も確かめようとはしない。確かめようのない噂がついて回ること自体が、この男たちの力の大きさを物語っていた。


松木は眼鏡を拭きながら、高砂の席の新郎新婦を眺めていた。


「先月の覆面との一戦は、三軒に二軒が見ておりました。あれが、たぶん、力王くんの最後の大花火でしょう。テレビは、これからは五輪です。プロレスなら、郷馬くんもおりますしな」


「だが、それでいい」と、大河原は言った。「あいつも、いまや立派な実業家だ。城を建て、ゴルフ場を拓き、こうして日本の娘を嫁にもらった。家庭を持った男は、もう暴れはせん」


四人の視線の先で、信格は、律子の隣に座り、ゆりの歌に聞き入っていた。テレビカメラの赤いランプが、その横顔を照らしている。


「牙は、抜けましたな」


佐々川がそう言うと、大河原は、満足げに盃を干した。


嫁を被せた策は、うまくいった。もう、あの男が何かをしでかすことはない。上座の四人は、誰一人として、そのことを疑っていなかった。松木は眼鏡をかけ直して高砂の席へ戻っていき、岸本は佐々川と、五輪の選手村の跡地の話を始めた。大河原は、空いた盃に手酌で酒を注ぎ、ゆりの歌の最後の一節に、目を閉じて聞き入っていた。


同じ日の夕方 東京・目黒 秀貞の部屋


目黒の屋敷の母屋は、去年の暮れから、空き家同然になっていた。新しい家は赤坂に建てられ、信格の荷物はあらかた運びだされて、母屋に残っているのは、古い簞笥と、使われなくなった受像機が一台だけだった。


秀貞は、その母屋の居間に、ひとりで座っていた。


膝の上には、一枚の写真が載っていた。四か月前の冬の夜更け、あの人が土間から黙って差しだしていった写真だった。白い壁の前に立たされた、作業着の娘。秀貞はこの四か月、一日として、その写真を手放したことがなかった。


受像機のスイッチを入れると、ブラウン管の真ん中に、白い光の点が浮かび、それがゆっくりと広がって、華やかな宴会場の光景になった。金屏風の前に、紋付袴の男と、色打掛の若い娘とが並んで座っている。美園ゆりの歌声が、受像機の小さなスピーカーから、少しひび割れて流れていた。


カメラが、男の横顔に寄っていく。男は、膝の上で拳を握りしめていた。白い歯は、見せていなかった。歌を聞きながら、どこか遠いところを見ているような目をしていた。


秀貞は、その目から、自分の目を逸らすことができなかった。それから、膝の上の写真に、目を落とした。ブラウン管の中の男と、写真の中の娘とは、同じ目をしていた。


満州の娼館の、凍えた明け方。薄い布団の中で、隣に寝ていたこの男が、天井を見つめたまま、小さな声で、故郷の川の話をしたことがある。冬になると、川が端から端まで凍るのだと。子供の頃、その上を走って、向こう岸まで渡ったのだと。秀貞の生まれた村の川も、冬には同じように凍った。二人で、同じ川の話をしたのだ。


ゆりの歌が終わり、会場の拍手が、スピーカーから溢れだした。秀貞は、受像機のスイッチを切った。


ブラウン管の光が、ゆっくりと小さな点に縮まって、消えていく。暗くなった居間で、秀貞は長いあいだ、何も映っていない灰色の画面を見つめていた。


それから立ちあがり、離れに戻って、箪笥の奥から油紙の包みを取り出した。今月の分だった。秀貞は、包みと写真とを一緒に胸に抱いたまま、冷えた畳の上に、静かに座りこんだ。


同じ夜 虎ノ門のホテル 最上階の一室


宴が果て、来賓たちが帰っていったあと、信格と律子は、ホテルの最上階の部屋に通された。


律子は着替えを済ませ、寝台の端に腰をかけて、膝の上の手を見つめていた。信格は、紋付を脱いだだけの姿で、窓辺に立ち、眼下に広がる東京の夜景を見下ろしていた。


虎ノ門の交差点から霞が関のほうへ、まだ工事中の道路の上に、点々と赤い灯りが並んでいる。夜を徹して、どこかで新しい道が造られているのだった。


「あなた」


律子が、小さな声で呼んだ。


「新婚旅行は、どちらへ連れていってくださるの。父は、熱海がいいだろうと申しておりましたけれど」


信格は、窓の外を見たまま答えた。


「来月からは、巡業だ。夏には、アメリカから大物を何人も呼んである。熱海なんぞに行ってる暇はねえ」


律子は、何も言わずに、信格の背中を見ていた。


信格は、窓ガラスに映った律子の顔に気づいた。湯呑みが床で割れた朝と、同じ顔をしていた。何かを訊きたいのに、訊いてはいけないと、自分に言い聞かせている顔だった。


信格は、しばらく黙っていた。それから、窓の外を見たまま、ぶっきらぼうに言った。


「……秋の終わりには、片がつく。そうしたら、アメリカへ連れてってやる」


律子が、顔を上げた。


「ハワイにも、寄ってやる。俺が、初めてリングに上がった町だ。海が、きれいだぞ。鎌倉の海とは、また違う」


「本当ですか」


「ああ」


「約束ですよ」


「……ああ。約束だ」


律子は、膝の上の手をほどいて、ほっとしたように微笑んだ。ひと月前から、律子がそんなふうに笑うのを、信格は一度も見ていなかった。


信格は、振り返らなかった。窓ガラスに映った自分の顔を見ていた。紋付を脱いだ胸の下で、肌着の上から、手のひらを胸元に当てていた。そこにはもう、写真はなかった。脱いだ紋付の内ポケットに、置いてきたのだ。


俺は、対馬光夫だ。長崎の、大村の在の、百姓の倅だ。


信格は、窓ガラスに向かって、声に出さずにそう繰り返した。何百回となく繰り返してきた言葉が、今夜はどうしても、口の中で味がした。苦い味だった。


「お休みになって」と、律子が言った。「今日は、お疲れでしょうから」


律子は寝台に横になり、目を閉じる前に、もう一度だけ、窓辺の夫の背中に声をかけた。


「あなた。今日は、リングの上のときみたいな、お寂しそうなお顔じゃありませんでしたよ」


信格は、答えなかった。


律子の寝息が聞こえはじめてから、信格は窓辺の椅子に腰を下ろし、葉巻に火をつけた。夜明けまで、工事の灯りは消えなかった。



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