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第82話 覆面

 昭和三十八年(一九六三年)五月 東京体育館


五月の末だというのに、東京体育館の中は、真夏のような熱気に包まれていた。


一万を超える客が、すり鉢状の客席を隙間なく埋め尽くし、通路にまで人があふれている。天井から吊られた照明の熱と人いきれとで、空気は白く濁り、扇子を使う客の腕だけが、客席のあちこちで、忙しなく動いていた。リングの真上には三友電機の看板が掲げられ、その脇で、松木の局のテレビカメラが五台、黒い首をもたげている。


この夜の相手は、アメリカから呼んだ、白覆面の男だった。


リングネームを、ザ・ナイトメアという。目と口だけをくり抜いた白い覆面で顔を覆い、素顔も本名も、誰にも明かしていない。アメリカ本土で、名だたる王者たちの脚を次々とへし折ってきた男だと、松木の新聞は、ひと月も前から書きたてていた。足を四の字に絡めて締めあげる技で、相手の膝を壊すのだという。


花道の奥の暗がりで、信格は、黒いガウンの肩を揺すりながら、出番を待っていた。


その少し後ろに、熊木が、タオルと水の桶を抱えて控えている。前座の試合で、郷馬が大男を二人まとめて投げ飛ばしたときの歓声が、まだ客席に、残響のように漂っていた。ビッグフット、ビッグフット、という掛け声が、ときおり思い出したように、客席のどこかから湧きあがる。


信格は、その掛け声を、背中で聞いていた。


「先生」と、熊木が、後ろから小さく声をかけた。「時間です」


信格は、ガウンの襟を一度だけ引き寄せ、花道の光の中へ、歩きだした。


同じ夜 東京体育館 リング上


ゴングが鳴ったのは、八時ちょうどだった。


白覆面の男は、リングの中央で、静かに両手を構えていた。体つきは信格より一回り小さく、腹も少し出ている。けれど、その覆面の奥の目だけが、冷たく、少しも揺れずに、信格の動きを追っていた。


一本目は、信格が、空手チョップの嵐で押し切った。覆面の男の胸板が真っ赤に腫れあがり、客席は総立ちになった。


二本目に入ると、流れが変わった。


覆面の男は、信格のチョップを紙一重でかわし、低い体勢から、信格の右脚に飛びついた。マットに倒れた信格の両脚に、自分の脚を素早く絡みつける。四の字の形に組みあげられた脚が、信格の膝を、内側から締めあげた。


激痛が、膝から腰へ、腰から背骨へと駆けあがった。


信格は、マットを掻きむしった。歯を食いしばり、上半身を起こして、覆面の男の脚を引き剥がそうとする。けれど、絡みついた脚は、鉄の鎖のようにびくともしなかった。覆面の男が体を反らせるたびに、膝の骨が、軋む音を立てた。客席が、悲鳴に包まれた。


レフェリーの沖田が、マットに這いつくばるようにして、信格の顔のすぐそばに屈みこんだ。ハワイで、まだ何者でもなかった信格に受身を教え、黒幕の金を一度も受け取らなかった男だった。


「ギブアップか、リキ」


沖田の声は、低く、静かだった。信格は、首を横に振った。


「ノー」


汗が、額から目に流れこんだ。照明の光が、にじんで、白く弾けた。それでも信格は、首を横に振りつづけた。ここで参ったと言えば、日本じゅうの茶の間が見ている前で、大和魂の英雄がアメリカの覆面男に膝を屈することになる。それだけは、できなかった。


覆面の男は、四の字に締めあげたまま、覆面の口の穴から、荒い息を吐いていた。その目が、ほんの一瞬だけ、信格の顔を覗きこんだ。何かを確かめるような、不思議な目だった。


やがて、二人の体はもつれあったままリングの縁を越え、場外へ転がり落ちた。絡みついた脚は、それでもほどけなかった。沖田のカウントが、場外の二人に向かって、ゆっくりと数えられていく。


二十。


ゴングが、乱打された。両者リングアウト。引き分けだった。


客席から、怒号とも歓声ともつかない声が、地鳴りのように湧きあがった。若い衆たちがリングの下に駆け寄り、二人の脚を、数人がかりで、ようやく引き剥がした。熊木は、真っ先に信格のもとへ駆けつけ、その太い腕を、自分の肩に回させた。信格の右脚は、膝から下が、紫色に腫れあがっていた。


その夜、松木の局の受像機の前に座っていた日本じゅうの茶の間の、およそ三軒に二軒が、この一戦を見ていた。そう、翌朝の新聞は書いた。


同じ夜 東京体育館 控室の廊下


右脚を引きずりながら控室へ戻る途中で、信格は、外国人選手の控室の前を通りかかった。扉が、半分ほど開いていた。


中に、さっきまでリングで戦っていた男が、椅子に腰かけているのが見えた。白い覆面は、もう、膝の上に置かれていた。


素顔は、拍子抜けするほど平凡な男だった。額が少し禿げあがり、鼻の上には、太い黒縁の眼鏡がかかっている。アメリカのどこかの町の、銀行の窓口にでも座っていそうな顔だった。男は、四の字に絡めていた自分の脚を投げだしたまま、膝の上の覆面の上に一枚の写真を載せ、それを眺めて、穏やかに微笑んでいた。


男が、扉の外の信格に気づいた。男は眼鏡の奥の目を細め、立ちあがりもせずに、片手を軽く上げてみせた。


「Good match, Riki」


それから男は、膝の上の写真を、信格のほうへ向けてみせた。芝生の庭で、金髪の女の子が二人、大きな犬を抱いて笑っている写真だった。


「My girls」


男は、照れくさそうに笑った。それから覆面を丸めて鞄の中に放りこみ、太い腕を伸ばして、気持ちよさそうに大きな欠伸をした。


信格は、扉の前に立ったまま、動けなかった。


あの男は、試合が終われば、覆面を脱げる。脱いだら、どこにでもいる、ただの父親に戻れる。故郷の町へ帰れば、自分の本当の名前で呼ばれ、芝生の庭で娘たちに抱きつかれるのだ。


自分の覆面は、脱げない。


二十年以上も被りつづけてきた覆面は、もうとうに顔の皮膚に貼りついて、剥がそうとすれば、肉ごとめくれてしまう。その下にある顔を、自分の娘は、一度も見たことがない。写真の中の、怒ったような目をした娘は、白い壁の前に立たされて、カメラを睨みつけていた。笑っては、いなかった。


「先生」


熊木の声で、信格は、ようやく我に返った。熊木は、信格の腕を肩に回したまま、黙って扉の前から引き離した。信格は、振り返らなかった。


翌朝 東京・赤坂 信格の新居


婚約を発表する少し前から、律子は、赤坂の家で暮らしはじめていた。式も挙げないうちから男の家に住むなど、と、田園調布の家の者たちは眉をひそめたが、松木の妻が、先生はお忙しい方ですから、と取りなして、それきりになった。律子の父親は、何も言わなかった。


朝刊の一面は、覆面の男との一戦で埋め尽くされていた。


四の字に締めあげられ、歯を食いしばる信格の大きな写真。その下に、空前の視聴率、という見出し。そして、一面の左下の、小さからぬ囲み記事に、前座の試合で大男二人を投げ飛ばした郷馬の写真が載っていた。


『ビッグフット郷馬、圧勝 次代の大エース、いよいよ本格始動』


信格は、食卓の上に新聞を広げたまま、その囲み記事を、長いあいだ見つめていた。


台所から、律子が、味噌汁の椀を盆に載せて運んできた。信格の右膝には、包帯が分厚く巻かれている。律子は椀を食卓に置くと、その包帯にそっと目をやり、それから、遠慮がちに口を開いた。


「あなた。お脚は、痛みますか」


「大したことはねえ」


「よかった」


律子は、ほっとしたように微笑んだ。それから、信格の向かいに座り、少しためらってから、こう続けた。


「わたくし、昨夜、テレビを拝見しながら、ずっと考えていたことがあるんです。この一月に、ソウルへいらしたでしょう。あちらでは、皆さん、韓国の言葉でお話しになるのでしょう。あなたは、お分かりになったの? 通訳の方が、ずっと付いていらしたのかしら」


信格の手が、箸を持ったまま、止まった。


律子は、何も知らなかった。ただ、夫になる人が海の向こうでどんな日々を過ごしたのかを、知りたかっただけだった。新聞に載っていた板門店の写真を、律子は切り抜いて、鏡台の引き出しにしまっていた。


信格は、左手に持っていた湯呑みを、口元へ運びかけていた。その指から、力が抜けた。


湯呑みは、信格の手を離れ、食卓の縁に当たって床に落ち、乾いた音を立てて割れた。熱い茶が、床板の上に広がっていく。律子は、はっとして腰を浮かせた。


「まあ、お熱かったでしょう。いま、布巾を……」


「……二度と、訊くな」


信格の声は、低く、かすれていた。律子は、浮かせた腰のまま、動きを止めた。


「あっちのことは、二度と、訊くな」


信格は、律子の顔を見ていなかった。床の上で割れた湯呑みを、見下ろしていた。


律子は、何も答えなかった。ただ、膝の前で両手を固く握りしめ、小さく、一度だけ頷いた。何も握らずにそこに置いておけるはずだった手が、白くなるほど、強く握りしめられていた。


信格は立ちあがり、包帯を巻いた脚を引きずって、玄関へ向かった。


「浜町へ行く。今夜は、帰らねえ」


扉が、閉まった。


律子は、しばらく、その場から動けなかった。それから、ゆっくりと床に膝をつき、割れた湯呑みの破片を、一つずつ、素手で拾い集めはじめた。指先が切れて、白い破片の上に、赤い血が一滴、落ちた。


同じ日の夜 浜町のマンション


信格は、長椅子に一人で座り、ウイスキーの瓶を、半分ほど空けていた。包帯を巻いた右膝が、脈を打つたびに疼いた。卓の上には、朝刊が広げられたままになっている。四の字に締めあげられた自分の写真。その隣の、郷馬の写真。


寝室の脇の小部屋の、鍵のかかった引き出しの奥には、金の懐中時計と、朱の印の封書がしまってある。娘の写真は、もう手元にはない。目黒の離れに、置いてきたのだ。


信格は、瓶を傾けて、グラスに注ぎ足した。


律子の顔が、頭から離れなかった。湯呑みが床で割れたときの、あの、何が起きたのかわからないという顔。何も知らずに、ただ夫になる男のことを知りたがっただけの娘に、自分は、まともに目を合わせることさえできなかった。


わかっていた。わかっていて、何も言えなかった。


「ふっ……」


信格は、グラスを空けて、笑った。笑ったつもりだった。


窓の外を、隅田川の黒い水が、音もなく流れていた。



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