第81話 招待
昭和三十八年(一九六三年)二月 東京・浜町 信格のマンション
ソウルから戻って半月が過ぎた夜、浜町の部屋の扉を、大島が控えめに叩いた。
扉の外には、大島と並んで、あの眼鏡の男が立っていた。鼠色の背広に、度の強い眼鏡。去年の春と夏に、二度だけこの部屋を訪ねてきた男だった。両腕に、風呂敷に包んだ四角い箱を、大事そうに抱えている。
信格は、居間の長椅子に腰を下ろしたまま、男を見上げた。男は勧められるのを待たずに向かいの椅子に浅く腰をかけ、膝の上で、風呂敷の結び目を解いた。
中から現れたのは、桐の木箱だった。男が蓋を開けると、紫の絹の上に、金色の懐中時計が一つ、横たわっていた。蓋の表には、細かな鳳凰の彫りが施され、その下に、朝鮮の文字が刻まれている。男はそれを両手で取りあげ、信格の前の卓の上に、そっと置いた。
将軍様から、あなたへ、と、男は言った。去年の春の、真心へのお礼でございます。
信格は、時計に手を伸ばさなかった。
男は、木箱の底から、さらに一通の封書を取り出した。厚い和紙の封筒に、赤い朱の印が押されている。男はそれも、時計の隣に並べて置いた。
将軍様が、ぜひ一度、平壌へお越しいただきたいと仰せでございます。東京の五輪が終わり、世の中が落ち着いた頃にでも。国を挙げて、民族の英雄をお迎えする支度を整えておく、と。
信格は、封書を見下ろしていた。それから男は、少しだけ声の調子を変えた。
先月は、ソウルへいらしたそうで。
部屋の空気が、ひやりと冷えた。
南の軍人どもに招かれ、議長の手を握り、競技場を建てる金を出すとお約束なさった。板門店では、北に向かって何かをお叫びになったそうですな。日本の新聞には、平和を叫んだと書いてございましたが。
男は眼鏡の位置を指で直し、穏やかに続けた。
それから、ソウルの市場で針仕事をしている女に、南の情報機関の男の手を通して、毎月、金をお送りになるそうで。
信格の指が、長椅子の肘掛けを、ぎりりと掴んだ。
あの夜のホテルの部屋にいたのは、自分と、姪と、大島と、熊木だけだった。廊下にいた南の情報機関の男と、大島がほんの短く言葉を交わしただけのことだ。それが、ひと月もたたないうちに、海を越えて、この男の耳に届いている。
将軍様は、寛大なお方です、と、男は言った。同胞の英雄が、南の傀儡どもにたぶらかされたのだと、そうお考えになっておられます。ですが、将軍様のお側におります者たちが、皆、将軍様のように寛大だとは限りません。
男は、膝の上の手を組みあわせた。
お兄様のおられる村では、南へ身内を逃がした家を、山奥の別の土地へ移すという話が、持ちあがっておるそうです。咸興の工場でも、近いうちに、働く者の素性をあらためて調べ直すとか。
信格は、男の顔を見ていた。男は、少しも表情を変えなかった。
わたくしどもとしましては、そのような話が、どうか立ち消えになりますようにと、心から願っております。そのためにも、あなたが平壌へお越しくださることが、何よりのお力になるのです。
それから男は、背広の内ポケットから、小さな紙の包みを取り出した。包みを開くと、中から、一枚の写真が出てきた。男はそれを、金の時計と封書の隣に、裏返したまま置いた。
お嬢様も、お父様にお会いしたがっておられますよ。
男は帽子を手に取って立ちあがり、深々と一礼した。大島が扉を開け、男を廊下へ送り出していく。扉が閉まる音が、部屋の中に、重く響いた。
信格は、長いあいだ、卓の上の三つのものを見下ろしていた。金の時計。朱の印の封書。そして、裏返しの写真。
やがて信格は、太い指で、写真を表に返した。
工場の作業着を着た、二十歳ほどの娘が写っていた。白い壁の前に立たされ、両手を体の脇にまっすぐ下ろして、正面を睨みつけるように見ている。頬はこけ、髪は短く刈られていた。笑っては、いなかった。
その目に、信格は、見覚えがあった。
毎朝、鏡の中で見ている目だった。満州の娼館の、凍えた明け方の窓ガラスに映っていた、まだ若かった自分の目だった。いつも何かに怒っているような、それでいて、どこか途方に暮れたような目。
信格は、写真を手に取ったまま、動けなかった。
同じ夜更け 浜町のマンション
大島が戻ってくると、信格は長椅子に座ったまま、写真を膝の上に置いて、窓の外の隅田川を見ていた。卓の上の金の時計と封書は、手もつけられずに、そのままだった。
〈金泰一〉
信格は、朝鮮の言葉で、大島の名を呼んだ。
〈はい、兄さん〉
〈平壌へ行けば、どうなる〉
大島は、答えなかった。答えは、二人ともわかっていた。
日本じゅうが、大和魂の英雄が北の将軍に抱きしめられる写真を見ることになる。長崎の百姓の倅という嘘は、その日のうちに剥がれ落ちる。三友も、松木も、大河原も、一夜で手のひらを返す。渋谷の城も、箱根の山も、律子も、何もかもが崩れていく。
〈行かなければ、どうなる〉
大島は、やはり答えなかった。
その答えも、わかっていた。山奥の別の土地へ移される兄。素性を調べ直される工場の娘。写真の中の、怒ったような目をした娘が、どこか知らないところへ連れていかれる。
信格は、膝の上の写真に、目を落とした。
〈……俺は、一体、誰なんだろうな〉
それは、大島に向けた問いではなかった。誰に向けた問いでも、なかった。
大島は、しばらく黙って立っていた。それから、床に膝をつき、信格の足元で、深く頭を下げた。
〈兄さんが行くところへ、わたしは、ついていきます。北でも、南でも〉
信格は、何も言わなかった。大島の丸めた背中を、黙って見下ろしていた。
やがて信格は立ちあがり、卓の上の金の時計と封書を、桐の木箱に戻した。寝室の脇の小部屋に入り、机の引き出しの、一番奥にしまいこむ。郷馬のハワイのギャラを隠していた、あの引き出しだった。鍵をかけ、鍵を、背広のポケットに落とした。
写真だけは、手に持ったままだった。
同じ夜更け 東京・目黒 秀貞の部屋
母屋の暗い窓の向こうで、離れの小さな窓だけに、灯りがともっていた。
秀貞は、卓袱台の前に座って、繕い物をしていた。夜の一時を回ろうとしていた。そのとき、離れの戸が、外から引き開けられた。
信格だった。
秀貞は、針を持つ手を止めて、戸口に立つ大きな影を見上げた。この離れの戸を、この男が自分の手で開けたのは、何か月ぶりのことだろうか。男は外套も脱がず、靴を履いたまま、土間に立ちつくしていた。
信格は、何も言わなかった。ただ、外套のポケットから一枚の写真を取り出し、土間から手を伸ばして、卓袱台の上に、そっと置いた。
秀貞は、写真に目を落とした。それから、その目が、大きく見開かれた。
針が、秀貞の指から落ちて、畳の上に転がった。秀貞は両手で写真を取りあげ、灯りの下に近づけて、食い入るように見つめた。白い壁の前に立たされた、作業着の娘。こけた頬。短く刈られた髪。怒ったような目。
最後に見たのは、二つになるかならないかの頃だった。母の背中におぶわれて、村の道の向こうへ遠ざかっていく、小さな頭。それが、こんなにも大きくなっていた。
秀貞の喉から、声にならない音が漏れた。写真を胸に押し当て、背中を丸めて、秀貞は、畳の上に崩れ落ちるように泣きはじめた。
信格は、土間に立ったまま、その背中を見下ろしていた。
〈……ずっと、送ってたのか〉
朝鮮の言葉だった。かすれた、低い声だった。
秀貞は、写真を胸に抱いたまま、何度も、何度も、頷いた。
信格は、長いあいだ黙っていた。土間の冷たい空気の中で、自分の息だけが、白く濁っていた。
〈……すまん〉
それだけ言って、信格は背を向けた。戸を閉める音が、ひどく小さく響いた。
秀貞は、離れの畳の上で、写真を抱きしめたまま、夜が明けるまで動かなかった。
同じ頃 浜町のマンションの前の通り
浜町の部屋の窓を、通りの向かいの電柱の陰から見上げている男がいた。天道だった。
夜の八時過ぎに、大島が、風呂敷包みを抱えた鼠色の背広の男を連れて、この建物に入っていくのを、天道は見ていた。一時間ほどして、男は手ぶらで出てきた。
夜更けの一時前、信格が一人で車を出したとき、天道は通りがかりのタクシーを拾って、そのあとを追った。キャデラックは、目黒の坂を上り、いまは空き家同然になった旧宅の門の前で止まった。信格は母屋には目もくれず、庭を回って、裏の離れの戸を開けた。灯りのともった小さな窓の向こうに大きな影が一瞬だけ映り、数分もしないうちに、信格は離れを出て、車に戻っていった。
天道は、門から少し離れた暗がりにタクシーを待たせたまま、手帳を取り出し、車内灯の薄明かりの下で、鉛筆を走らせた。
『二月某日。浜町の別宅。
北系の団体の幹部、再訪。大島が案内。
来訪時、四角い包みを持参。帰りは手ぶら。
同夜一時頃、力王山、単身にて目黒の旧宅へ。
離れに住む満州以来の女のもとを訪ねる。数分で出る』
天道は手帳を閉じ、運転手に、近くの公衆電話のある通りまでやってくれ、と告げた。




