第7話 背信
昭和十九年(一九四四年)十一月 東京・両国 三所の山部屋
満州から戻って、三か月が過ぎた。
番付が発表された日、力王山の名は、ついに十両の欄に刷られていた。新十両。関取の仲間入りだった。
親方に呼ばれ、祝いの酒を一杯だけ注がれて部屋に戻ると、若い衆が一枚の葉書を差し出してきた。
「力王関……これ、部屋宛てに」
あの兄弟子の、戦死の公報だった。南方の、名前も聞いたことのない島で死んだという。
信格は、葉書を握りしめたまま、長いあいだ廊下に立ちつくしていた。
あいつの顔は、まだ脳裏に焼きついている。あの雨の夜、柱に刻んだ首の型の、最初の一人だった。
「……ふっ」
乾いた笑いが、喉の奥で引っかかった。
「先に、逝きやがって」
勝ち逃げされたような悔しさと、名づけようのない何かとが、胸の底で、ぐちゃぐちゃに混ざりあっていた。
場所が始まった。
信格は、初めて大銀杏を結い、付け人を従えて国技館に入った。廊下ですれ違う若い衆たちが、慌てて頭を下げていく。半年前までは、自分が頭を下げる側だった。
その廊下の隅に、永哲が待っていた。
〈兄貴、明日、俺の……〉
「なんだ、お前」
信格は、日本語で答えた。
永哲の顔から、すうっと血の気が引いていった。
〈約束……したじゃないか。井戸のところで〉
「知らねえな」
信格は足を止めずに、その横を通り過ぎた。
「関取に、気安く話しかけるんじゃねえ。白鷺山」
背中に、永哲の視線が突き刺さっているのがわかった。けれど、信格は一度も振り返らなかった。ふっ、と、誰にも聞こえない声で笑っただけだった。
関取になったばかりの十両が、幕下の取組に口を利けば、すぐに噂になる。朝鮮人同士で星を回している、と。そうなれば、せっかく掴んだ関取の座も、対馬光夫という名前も、すべてが崩れてしまう。
自分を差別してきた日本人と、何が違うのか。封筒を受け取った親方と、何が違うのか。
わかっていた。わかっているからこそ、振り返るわけにはいかなかった。
その場所、白鷺山は負け越して、三段目に落ちた。
朝鮮の若者たちにも、徴兵が始まった年だった。
昭和十九年(一九四四年)暮れ 三所の山部屋
部屋の門の前に、ひっそりと一本だけ、祝出征の幟が立った。
万歳を叫ぶ者は、いなかった。見送りに出たのは、親方と、数人の若い衆だけだった。
永哲は、門をくぐる前に、一度だけ振り返った。二階の窓の、障子の隙間に、大きな影が立っていた。永哲は、それを確かに見たはずだった。
けれど、影は動かなかった。
永哲は小さく頭を下げ、雪のちらつく道を、一人で歩いていった。
その日、信格は、朝から稽古場に下りなかった。
暗い部屋で膝を抱えて座りこんだまま、満州の駅のホームを思い出していた。柱の陰で、紙切れを握りしめていた秀貞の姿。俺が、お前の面倒を見る、約束する、と、自分は言った。
同じ口で、同じ言葉を言ったのだ。
窓の外で、雪が、音もなく降り積もっていった。
ふっ、と、信格は笑おうとした。その声は、ひどく震えていた。




