第6話 同郷
昭和十九年(一九四四年)夏 満州
大陸の夏は、果てしなく続く高粱の畑と、目を焼くような赤い夕陽だった。
すし詰めの列車に揺られ、駅に着くたびに、兄弟子たちの重い明荷を担いで降りる。幕下の信格に、座席などあるはずもなかった。連結部の床に膝を抱えて眠り、目が覚めれば、また次の町の土俵の設営が待っていた。
慰問の土俵は、どこへ行っても同じだった。軍楽隊が鳴り、日の丸が翻り、汗にまみれた兵隊たちが、日本の国技に喝采を送る。その巡業の番付には、こう刷られていた。
幕下、長崎県出身、力王山。
新京に着いた夜、信格は関取衆に連れられて、ある娼館の暖簾をくぐった。あてがわれたのは、廊下の一番奥の部屋だった。
「おい、力王。お前には、朝鮮の女がお似合いやろ。仲良うせえよ」
廊下の向こうで、兄弟子たちの下卑た笑い声が遠ざかっていった。
蒸し暑く、薄暗い部屋の隅に、女が一人座っていた。
「洋子と申します。よろしゅう、お願いします」
女は、三つ指をついて頭を下げた。その日本語に、わずかな訛りがあった。語尾が、ほんの少しだけ跳ねる。信格の耳に、ひどく懐かしい抑揚だった。
信格は、しばらく黙って、女を見下ろしていた。
〈……どこの生まれだ〉
女の肩が、びくりと震えた。顔を上げた女の目が、信じられないものを見るように、大きく見開かれていた。
〈咸鏡道……北の、海の近くの村〉
〈俺もだ〉
女の唇が、かすかに震えた。
同郷、という言葉が胸をよぎったその瞬間、信格の脳裏に、井戸端ですがるように見上げてきた永哲の顔が浮かんだ。腰の入っていない、あの軽い立ち合い。信格は、思わず女から目を逸らした。
〈あんたの、名前は?〉
「力王山——」
言いかけて、信格は口をつぐんだ。
四年前の春、入門の日のことを、思い出していた。
親方に連れられて入った座敷に、見知らぬ男が座っていた。長崎から来たという、日焼けした小柄な農夫だった。畳の上には、一枚の書類が広げられていた。
「国技の土俵に上がる男が、朝鮮の出じゃ具合が悪い」
親方は、煙管をふかしながら言った。
「ここに、指を押せ」
信格は、言われるままに朱肉に親指を沈め、紙へ押しつけた。
「今日から、お前は対馬光夫だ。長崎の対馬家の倅だ。朝鮮の名前は、二度と口にするな」
紙一枚だった。たったそれだけで、自分は、日本人になったのだ。
〈……崔信格。オモニには、シンラックと呼ばれてる。土俵では、力王山。書類の上じゃ、対馬光夫だ〉
女は、少しのあいだ黙っていた。それから、小さく笑った。
〈どれも、本当の名前じゃないみたいだね〉
ふっ、と、信格の口からも、乾いた笑いが漏れた。
〈お前は?〉
〈ここでは、洋子〉
女は、膝の上で手を握りしめ、まっすぐに信格を見た。
〈白秀貞。……この名前を口にしたのは、海を渡ってから、あんたが初めて〉
新京に留まった十日のあいだ、信格は毎晩、あの奥の部屋へ通った。
兄弟子たちは、朝鮮同士、よっぽど相性がええらしい、と下品に笑ったが、部屋の中で二人がしていたのは、ほとんどが話だった。
〈俺の村じゃ、シルムで負けたことがなかった〉
信格は、天井の染みを見上げながら言った。
〈秋の祭りで、大人を三人続けて投げ飛ばした。賞品の牛を引いて帰ったら、村じゅうが英雄扱いさ。それを見てた日本の男が、相撲取りにならないかって、声をかけてきた。十五の時だ〉
〈お母さんは?〉
〈村を出る朝、オモニは、茹でた芋を三つ、手拭いに包んで持たせてくれた〉
信格の声が、少しだけ掠れた。
〈海の向こうに行けば、腹いっぱい食えるからってな。……それきり、一度も会ってない〉
〈じゃあ、さっき言ってたオモニは?〉
〈東京の、朝鮮人街の食堂のおばちゃんだ。本当の母親じゃない。けど、俺に飯を食わせてくれるのは、あの人だけだった〉
秀貞は、黙って、信格の腕に頬を寄せた。
しばらくして、秀貞がぽつりと言った。
〈あたしはね、十六の時、村に男が来たの。日本の工場で働けば、お金を家に送れるって。オモニも、アボジも喜んで、あたしを送り出した〉
信格は、黙って聞いていた。
〈着いたのは、工場じゃなかった〉
秀貞は、それ以上は言わなかった。信格も、それ以上は訊かなかった。
二人とも、海を渡れば何かが手に入ると信じた。そして二人とも、手に入れたのは、本当ではない名前だけだった。
六週間後、大陸をぐるりと巡った一行は、帰国の途中で、ふたたび新京に立ち寄った。
最後の夜、信格は懐から一枚の紙切れを取り出し、秀貞の手に握らせた。東京の、オモニの店の場所を書きつけたものだった。
〈戦争が終わったら、日本に来い。ここを訪ねれば、俺に繋がる〉
秀貞は、紙切れを見下ろしたまま、何も言わなかった。
〈俺が、お前の面倒を見る。約束する〉
その言葉を口にした瞬間、信格の背筋を、冷たいものが這いのぼった。
井戸端で、同じ言葉を言ったのだ。約束する、と。
秀貞は、紙切れを胸に押し当てて、静かに微笑んだ。
〈うん。待ってる〉
けれど、秀貞が信格に言わなかったことが、一つだけあった。
この数日、朝になると、決まって胸がむかつくこと。月のものが、遅れていること。
重荷になるわけにはいかなかった。娼婦の腹の子など、関取になる男の足を引っ張るだけだ。秀貞は、その言葉を、喉の奥に飲みこんだ。
翌朝、新京の駅で、汽笛が鳴った。
窓から身を乗り出した信格の目に、ホームの柱の陰に立つ秀貞の姿が、ほんの一瞬だけ映った。
列車が、動きだした。
秀貞は、手を振らなかった。ただ、紙切れを握りしめたまま、遠ざかっていく列車を、いつまでも見つめていた。




