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第5話 約束

 あの幕下全勝優勝には、誰にも言えない裏があった。


昭和十九年(一九四四年)五月 東京・両国 三所の山部屋


千秋楽を翌日に控えた夜、稽古場の裏の井戸端で、永哲は信格を待っていた。


「兄貴」


痩せた肩をすくめ、永哲は周りに人がいないのを確かめてから、声を落とした。


〈明日の一番、俺は、立ち合いで変わらない。まっすぐ当たって、そのまま土俵を割る〉


信格は、黙って井戸の水を汲みあげ、頭からかぶった。


明日、幕下の千秋楽で当たる相手が、この永哲だった。勝てば、全勝優勝になる。秋の場所での十両昇進が、ほぼ決まる。


〈その代わり、兄貴〉


永哲は、すがるような目で、信格を見上げた。


〈俺は、もう負け越しが決まってる。次の場所で勝ち越さないと、三段目に落ちる。落ちたら、もう、部屋にはいられない。徴兵も、朝鮮人にまで回ってくるって噂だ〉


信格は、何も言わなかった。


〈だから、次の場所で、兄貴が関取になったら、俺の取組のときに、誰か一人でいい、口を利いてほしいんだ。それだけで、いいんだ〉


信格は、濡れた髪をかきあげた。それから、永哲の痩せた肩に、大きな手を置いた。


〈わかった。約束する〉


永哲の顔が、くしゃりと崩れた。


〈ありがとう、兄貴。兄貴が上に行けば、俺たち朝鮮人みんなの……〉


その先は、言葉にならなかった。


翌日の千秋楽、立ち合いで、永哲はまっすぐに当たってきた。腰の入っていない、軽い当たりだった。信格はそれを胸で受け止め、一気に寄った。永哲の足が、呆気なく、土俵の外へ出ていった。


勝ち名乗りを受ける信格の耳に、館内の拍手が降りそそいだ。


幕下、全勝優勝。


ほかの取組で見かけた、あの呆気ない一番。今日、自分は、その側に立っていたのだ。


その夜、信格は一人で稽古場に下りた。


血の染みた柱の前に立ち、拳を握った。けれど、一撃も、打ちこむことができなかった。


ガチンコだけが、自分の誇りだったはずだ。封筒ひとつで星を売り買いする連中を、あの夜、柱の陰から、冷えた目で笑ったはずだった。


約束する。


自分の口から出たその言葉が、耳の奥で、何度も何度も繰り返されていた。


「……約束、か」


ふっ、と、信格は笑った。


その笑い声は、湿った稽古場の暗がりに、すぐに吸いこまれて消えていった。


翌月、相撲の一行は、皇軍慰問のために、海を渡ることになった。


行き先は、満州だった。



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