第4話 召集
昭和十八年(一九四三年) 東京・両国 三所の山部屋
あの夜から、信格の相撲は変わった。
立ち合いで当たり負けることは、もうなかった。三段目、幕下と、番付の上で、力王山の名は一場所ごとにせり上がっていった。
けれど、勝てば勝つほど、土俵の上の空気は冷たく尖っていった。
「朝鮮人に負けたら、部屋に帰れねえぞ」
相手は皆、目を血走らせて向かってくる。顔を張られ、喉を突かれ、土俵際で肘を入れられる。ほかの取組で見かける呆気ない一番は、相変わらず、力王山にだけは回ってこなかった。すべてが、ガチンコだった。
それでも、信格は勝った。
その年の秋、部屋の門の前に、日の丸の小旗が並んだ。
祝出征、と書かれた幟の下に立っていたのは、あの雨の夜、大部屋で、犬でも食ってきたのか、と笑った兄弟子だった。
「万歳! 万歳! 万歳!」
親方も、谷町も、近所の女たちも、声を張りあげて腕を振りあげている。兄弟子は、真新しい国民服に身を包み、こわばった顔で敬礼を返していた。
人垣の後ろで黙って立っていた信格と、ほんの一瞬だけ、目が合った。
「……おい、シンラック」
兄弟子は、口の端を歪めた。
「お前はええのう。朝鮮人は、お国のために死なんでもええんやからな」
嘲っているようでいて、どこか羨んでいるような、震えた声だった。
信格は、何も答えなかった。ふっ、と、小さく笑っただけだった。
それからというもの、部屋の顔ぶれは、櫛の歯が欠けるように減っていった。
一人、また一人と、赤紙が届いた。残った者たちも、次は自分の番かと怯え、稽古場に下りてくる足取りは、日に日に重くなっていった。ちゃんこ鍋には、芋の蔓と大根の葉が浮かぶだけになった。誰もが腹を空かせ、目に見えて痩せていった。四股を踏む音も、鉄砲を打つ音も、いつしか稽古場から消えていった。
ただ一人を、除いて。
夜更けの稽古場に、柱を打つ音だけが、どすん、どすん、と響いている。
日本人として死ねと言われる男たちがいる。そして、日本人として数えられることすらない、自分がいる。この国は、俺を兵隊にすら勘定していない。
皮肉なことに、その仕打ちだけが、いまの信格にとっては天の恵みだった。
「死にに行く奴らのぶんまで、俺が上に行ってやる」
信格は、血の染みた柱に、また一撃を叩きこんだ。
昭和十九年(一九四四年)五月 両国国技館
櫛の歯の欠けた番付の上で、力王山は勝ちつづけた。
初日から、白星が並んだ。二日目、三日目、四日目。痩せ細った相手を突き、押し、土俵の外へ叩き出していく。
そして、千秋楽。
最後の一番に勝った瞬間、館内に、拍手が降りそそいだ。
幕下、全勝優勝。
関取の座は、もう、目の前だった。




