第3話 谷町
昭和十六年(一九四一年) 東京・両国 三所の山部屋
夜ごとの柱への打ちこみは、確実に、信格の体を変えていった。
丸太のような腕はさらに太くなり、四股を踏めば、稽古場の床板が悲鳴のように軋んだ。季節がひとつ巡る頃には、番付の下のほうで、力王山という四股名が、少しずつ噂になりはじめていた。
「朝鮮人なんぞに、負けてたまるか」
土俵で向かい合う相手は、誰もが目の色を変えていた。立ち合いから、頭を割るつもりでぶつかってくる。顔面への張り手。顎を狙ったかち上げ。土俵の下へ叩き落とそうとする、しつこいほどの執念。
ほかの取組では時おり見かける、どこか力の抜けた、妙に呆気ない相撲。そんなものは、力王山との一番には、一度もなかった。
すべてが、ガチンコだった。
勝つたびに、信格の体には痣が増え、口の中はいつも血の味がした。それでも、信格は勝った。
その夜も、信格は一人で柱を打っていた。
血の染みた木目に最後の一撃を叩きこみ、荒い息を整えていたときだった。稽古場の奥、親方の部屋へ続く廊下の障子に、灯りが揺れているのが目に入った。低い話し声が、かすかに漏れ聞こえてくる。
信格は足音を殺して、柱の陰に身を寄せた。
障子の隙間から見えたのは、親方と、恰幅のいい羽織姿の男だった。見覚えがあった。よその部屋の力士を贔屓にしている、大阪の谷町だった。
男が、分厚い封筒を、畳の上に滑らせた。
「千秋楽の一番、よろしゅう頼みますわ。うちの坊が、勝ち越しかかっとるさかい」
「わかっとる。うちの若いのには、よう言い聞かせとく」
親方は、封筒を懐にしまいながら、表情ひとつ変えずに答えた。
「それと、親方。例の朝鮮人のことやけど」
柱の陰で、信格の背筋が、ぴくりと動いた。
「あれは、あんまり上に上げんほうがええで。旦那衆が、えらい嫌がっとる。国技の土俵に、あんなんが上のほうでふんぞり返っとったら、示しがつかんてな」
「心配いらん」
親方は煙管に火を入れ、ゆっくりと煙を吐いた。
「強いのは、強い。だが、ええところで止めさせる。番付なんてものは、土俵の上だけで決まるわけじゃねえからな」
二人の低い笑い声が、障子の向こうで重なった。
信格は、柱の陰で立ちつくしていた。
自分に向かってくる相手だけが、なぜいつも本気だったのか。ほかの取組が、なぜあんなに呆気なかったのか。その答えが、いま、障子一枚の向こうで、封筒と一緒に畳の上を滑っていった。
日本精神だの、国技だの。そんな有難いものは、封筒ひとつで売り買いされていたのだ。自分だけが、その外側に置かれて、血を流しながら本気の相撲を取らされていた。
「……なんだ。そういうことかよ」
信格の喉から、乾いた笑いが漏れた。怒りでも、絶望でもない。奇妙に冷えた笑いだった。
掌の傷口が開き、血が指先を伝って、土の上にぽたりと滴り落ちた。
「強えだけじゃ、駄目だってことか……」
ならば、と信格は思った。
金でも止められねえほど、強くなればいい。あいつらが、封筒ごと震えあがるほどに。
のちに彼が、ブックと呼ばれる台本の世界へ放りこまれる、その十年も前の夜のことだった。




