第2話 原点
同じ夜 東京・両国 三所の山部屋
オモニの店を後にし、大粒の雨に打たれて濡れ鼠になったまま部屋へ戻ると、二階の大部屋から、力士たちの品のない笑い声が漏れていた。
「おーおー、シンラックが帰ってきたぞ」
「おいおい、部屋が臭くなるから、廊下で寝ろや」
「朝鮮人の匂いが染みつくだろうが。犬でも食ってきたのか」
畳の上に車座になって花札に興じている兄弟子たちは、戸口に立った信格のほうを、ちらりとも見なかった。札を叩きつける手を止めずに、蔑みの言葉だけを投げつけてくる。へらへらと笑い転げるその顔を、信格は、一人残らず脳裏に焼きつけた。
「……くそが」
信格は、低く吐き捨てた。それから、自分の荷物には目もくれずに、暗く静まり返った階下の稽古場へと下りていった。
稽古場には、裸電球がひとつだけ吊るされていた。雨の湿気を吸った土俵の土が、ひやりと冷たい。信格は、濡れた着物を脱ぎ捨てて裸になり、その土を、素足で踏みしめた。
ずしん、と、四股を踏む音が、暗い稽古場に響いた。
もう一度。さらにもう一度。地面を揺らすような四股を何十と踏んだあとで、信格は、稽古場の隅に立つ丸太のような太い柱の前に立った。荒い息を吐きながら、その柱に向かって、両の掌を、ひたすら打ちこみはじめた。
鉄砲である。
どすん、どすん、と、重い音が稽古場の壁に跳ね返る。けれど、信格の打ちこむ掌は、相撲の押しのそれではなかった。
「首だ……」
信格は、柱を睨みつけたまま、掌を叩きこむ角度を、わずかに変えた。前へ突き出すのではない。上から斜め下へ、刃物で削ぎ落とすような角度だった。狙いを定めたのは、柱の、ちょうど人の首の高さにあたるところだった。
「首の横……ここだ」
信格は、何度も、何度も、同じところへ掌の縁を叩きつけた。体が、その角度を覚えこむまで。考えるより先に、腕が勝手にそこへ振り下ろされるようになるまで。
がん、と、乾いた音が変わった。
掌の皮が裂け、滲み出した血が、柱の木目を赤く染めていった。それでも、信格は打つのをやめなかった。痛みに顔を歪めるどころか、その口元には、どす黒い笑みさえ浮かんでいた。
この首に、叩きつけてやる。あいつら全員の、息の根を止めてやる。
雨の音が、稽古場の高窓を、いつまでも叩きつづけていた。
差別と屈辱の闇の底で、この夜、一つの型が研ぎ澄まされた。それは、ただの冷たい殺意の形にすぎなかった。
けれど、のちにその型は、「大和魂の象徴」と呼ばれることになる。日本じゅうの茶の間が熱狂し、白人の大男たちの首筋を叩き割る伝説の必殺技、空手チョップ。その原点は、この雨の夜の、血に濡れた一本の柱にあった。




