第一章 因果の土俵 第1話 品格
昭和十五年(一九四〇年)秋 東京・両国
戦火の足音が、まだ遠雷のように聞こえていた頃のことである。朝鮮半島から海を渡ってきた一人の大男が、三所の山部屋の門をくぐった。
名を、崔信格という。
トタン屋根を叩く雨の音が、夜が更けるにつれて、しだいに大きくなっていた。
「もう、今日は閉めようかのう」
軒先の看板を片づけかけていたオモニは、雨の幕を割るようにして店の中へすべりこんできた巨大な影に、目を細めた。
「オモニ」
「なんじゃ、信格か。また飯にありつけんかったんか」
「ああ、うるせえな。オモニ、クッパをくれ。豚の三枚肉も焼いて、入れてくれ」
髷を結った大きな体を窮屈そうに折り曲げて、崔信格は、粗末な丸椅子にどかりと腰を下ろした。のちに、力王山の名で日本じゅうを熱狂させることになる男である。けれど、このときはまだ、ちゃんこ鍋の底を浚うことさえ許されない、部屋の一番下の取的にすぎなかった。
「また、稽古場でいびられたんか」
「あの野郎ども、ちゃんこ鍋をわざと空にして、底のゴミしか残さねえ。俺が手を伸ばすと、おい崔、朝鮮人に食わせる肉はねえぞ、土の塊でも食ってろ、ってよ……」
信格は、土間へ唾を吐き捨てた。膝の上で握りしめた太い拳が、みしみしと音を立てている。肉厚の掌には爪が食いこんで、うっすらと血が滲んでいた。
オモニは小さく溜め息をつき、黒ずんだ土鍋に、朝から牛の骨を煮出しておいた汁を注ぎ入れた。七輪の網に分厚い豚の三枚肉を載せると、じゅう、と脂の弾ける音とともに煙が立ちのぼり、狭い店の中に、香ばしい匂いが満ちていった。
「オモニ」
信格は、膝の上の大きな拳を見つめたまま、絞り出すような低い声で言った。
「なんで、こんなに嫌われなきゃならねえんだ。教えてくれよ」
「シンラック。それは……ここが、日本だからじゃ」
オモニは、七輪の肉から目を離さずに答えた。
「力だけでは、通用せん。国に帰っても、飯も食えん。我慢するしか、うちらは生きていけんのじゃ」
「そんなもん、俺がひっくり返してやる」
信格は、顔を上げた。
「横綱になりゃあ、朝鮮人だろうが何だろうが、関係なく敬うだろうよ」
「お前みたいな奴が、横綱になれるわけないじゃろうが」
オモニは、七輪の肉を箸で裏返した。それから、冷ややかに、けれど静かに言った。
「品格が、ないでな」
「……黙れ!」
信格の低く濁った声が、狭い店の中に響き渡った。オモニは、肩ひとつ動かさなかった。
「俺は、絶対に負けねえ。いくら踏みつけられたって、あんな奴らに頭なんか下げねえよ。見てろ。いつか、あいつら全員、俺の足元に跪かせてやる。この国ごと、俺の拳で叩き潰してやるんだ」
オモニは、何も言い返さなかった。焼きあがった三枚肉を、湯気の立つ土鍋の汁の上に、黙って並べただけだった。
運ばれてきた熱いクッパに、信格は、貪るようにかぶりついた。
火傷しそうな熱さと、唐辛子の痛みとが、喉を焼きながら落ちていく。香ばしく焼けた三枚肉の脂が、冷えきった体の芯へ、ゆっくりと沁みわたっていった。
目頭から、熱いものが込みあげてきた。信格は、それを、擦り切れた着物の袖で、乱暴に拭い去った。
涙ではない、と、信格は自分に言い聞かせた。腹の底でどす黒く渦を巻いている、飢えと、殺意だ。
外では、雨の音だけが、いつまでも激しく、トタン屋根を叩きつづけていた。




