序章 第0話 危篤
序章
昭和三十八年(一九六三年)十二月十五日 夜 東京・赤坂
「先生! 先生!」
「力王山先生! しっかりしてください!」
白い天井が、ぐにゃりと歪んでいた。
誰かが手を握っている。誰かが肩を揺すっている。鼻をつくのは消毒液の匂いと、腹の奥から立ちのぼる、腐った果実のような甘い臭いだった。
枕元を囲む顔、顔、顔。
白衣の医師たち。上等な背広を着た男たち。リングで共に汗を流した弟子たちが、顔をぐしゃぐしゃに濡らして名前を呼ぶ。
「先生、目を開けてください!」
「日本の力王山が、こんなかすり傷で死ぬわけがねえでしょう!」
すすり泣きが、白い壁に反響する。
病室の扉の向こうでは、新聞記者たちの怒号とフラッシュの音が絶え間なく続いていた。明日の朝刊には「国民的英雄、危篤」の大見出しが躍るのだろう。日本中が、この男のために泣くのだろう。
(……うるせえな)
力王山は、霞む目で枕元を見回した。
泣いている。誰もが泣いている。
その涙のうち、本物はいくつあるのか。
部屋の隅、壁にもたれて立つ一人の大男だけは、泣いていなかった。ただ静かに、腕時計の針を見つめていた。
「先生……力王山先生……」
遠退いていく意識の中で、その呼び名だけが、やけにはっきりと耳に残った。
先生?
……違う。
そんな名前じゃねえ。
唇が動いた。だが、声にはならなかった。
ふっ、と。
力王山の口元が、かすかに歪んだ。
この俺が。
こんな傷で。
ふっ……。
そうか。
ここは、ヤツの病院か。
言いたいことは、山ほどある。
だが、もう——。
窓の外で、冷たい雨が降り出していた。
ガラスを叩く音が次第に大きくなり、泣き声も、怒号も、フラッシュの音も、少しずつ遠ざかっていく。
トタン屋根を叩く雨の音に似ている、と彼は思った。
あの夜の、オモニの店の。
もう、疲れたよ。
オモニ。
——シンラックや。
雨の音の向こうから、遠い声が聞こえた気がした。
凍った川の、向こう岸から。




