プロローグ 凍河
昭和七年(一九三二年)一月 朝鮮・咸鏡南道 海に近い村
その冬、川は、端から端まで凍った。
村の東を流れる川だった。夏には、子供の背丈ほどの深さで、緑色の水がゆっくりと海へ下っていく。秋の終わりに北の山から冷たい風が吹きはじめると、川の縁から少しずつ白く固まりはじめ、正月を過ぎる頃には、向こう岸まで、一枚の白い板のように凍りつくのだった。
八つになったばかりの少年が、その川の岸に立っていた。
綿の詰まった古い上着を何枚も重ね着して、頬を真っ赤にしている。体は、同じ年の子供たちよりも、ひと回りも、ふた回りも大きかった。足も、手も、大人のように太かった。けれど、その目だけは、まだ子供の目だった。いつも何かに怒っているような、それでいて、どこか途方に暮れたような目だった。
少年の名を、崔信格といった。
「怖いのか、シンラック」
背後で、笑い声がした。
振り返ると、兄が立っていた。十六になる兄は、もう大人の男と変わらないほど背が高く、肩幅が広かった。去年の端午の節句には、村の広場で開かれた相撲の大会で、大人たちを次々と砂の上に転がし、牛を一頭、もらってきた。
「怖くなんか、ない」
少年は、むきになって言い返した。
「そうか」
兄は、少年の頭を、大きな掌で乱暴に撫でた。それから、凍った川の上に、ためらいもなく足を踏み出した。氷が、兄の重みを受けて、みしり、と低く鳴った。兄は、振り返りもせずに、川の真ん中へ向かって歩いていった。
少年は、岸に立ったまま、兄の背中を見ていた。
川の真ん中まで来ると、兄は立ち止まり、両腕を広げて、こちらを振り返った。
「来い、シンラック。走ってこい。向こう岸まで、一緒に行くぞ」
少年は、唇を噛んだ。
それから、凍った川の上に、一歩、足を踏み出した。
氷は、冷たく、固かった。足の裏から、骨まで凍える冷たさが、這い上がってきた。二歩目を踏み出すと、足が滑りそうになった。三歩目で、少年は走りだした。
走った。
北の山から吹き下ろしてくる風が、頬を打った。耳が千切れそうに痛んだ。足の下で、氷が、ときおり、みしり、と鳴った。そのたびに、少年の心臓は、跳ねあがった。それでも、少年は止まらなかった。兄の広げた両腕だけを見て、走りつづけた。
兄の胸に、頭から飛びこんだ。
兄は、少年の大きな体を、両腕で受け止めた。それから、声を上げて笑った。
「ほら、怖くなかっただろう」
少年は、兄の胸に顔をうずめたまま、肩で息をしていた。怖くなかったわけではなかった。けれど、それは言わなかった。
「シンラック」
兄は、少年の顔を、両手で挟んで上を向かせた。
「いいか。強い奴が、強いんだ。どこの誰だろうが、関係ねえ。氷の上でも、砂の上でも、最後に立ってる奴が、強いんだ」
少年は、兄の顔を見上げていた。
兄は、少年の真っ赤な頬を、親指で一度だけ強くこすった。それから、口の端を、ほんのわずかに持ち上げて、短く笑った。
「ふっ」
それは、兄の癖だった。何か嬉しいことがあったときにも、悔しいことがあったときにも、兄は、そうやって、口の端だけで短く笑った。
少年は、その笑い方が、好きだった。
二人は、並んで、向こう岸へ向かって歩きだした。
同じ日の夕方 川の向こう岸
向こう岸には、低い土塀の家が、何軒か並んでいた。
一番手前の家の、煙突から、白い煙が細く立ちのぼっている。その家の前の、雪を掻いた土の上に、一人の女が立っていた。
母だった。
頭に白い布を巻き、両手で、湯気の立つ大きな鉢を抱えている。牛の骨を、朝から一日じゅう煮出した汁だった。その匂いが、凍った川の上の風に乗って、こちらまで漂ってきていた。
「シンラックや」
母が、呼んだ。
その声は、北の山から吹き下ろす風の中でも、不思議とよく通った。やさしく、少しだけ叱るような、それでいて、どこまでも温かい声だった。
「そんなところで、何をしているの。凍えてしまうよ。早く、おいで」
少年は、兄の顔を見上げた。兄は、顎で母のほうを指した。
少年は、走りだした。
凍った川の岸を駆け上がり、雪を掻いた土の上を、母のもとへまっすぐに走っていった。母は、湯気の立つ鉢を片手に持ち替え、もう一方の腕で、少年の大きな体を抱きとめた。
「まあ、こんなに冷たくなって」
母は、少年の真っ赤な頬に、自分の頬を押しあてた。母の頬は、温かかった。牛の骨の汁の匂いと、竈の煙の匂いとが、母の体から立ちのぼっていた。
「さあ、お入り。お汁が、冷めてしまうよ」
少年は、母の胸に顔をうずめたまま、小さく頷いた。
背後で、兄が、また、ふっ、と笑うのが聞こえた。
少年は、母の腕の中から、ふと振り返った。
凍った川の向こうに、自分が走ってきた岸が、白く霞んで見えていた。その先には、低い山があり、山の向こうには、海があるはずだった。冬の海は、いつも鉛色に濁って、荒れていた。その海の、ずっとずっと向こうに、日本という国があるのだと、村の年寄りたちは言っていた。
その国のことを、少年は、まだ何も知らなかった。
自分がいつか、その海を渡ることも。その国で、別の名前を与えられることも。何万という人々に、その別の名前で呼ばれることも。そして、最後まで、自分の本当の名前を、誰の前でも口にできなくなることも。
少年は、まだ、何も知らなかった。
「シンラックや」
母が、もう一度、呼んだ。
少年は、母の顔を見上げた。母は、湯気の立つ鉢を抱えたまま、やさしく微笑んでいた。
その声を、少年は、生涯、忘れなかった。
凍った川の向こう岸から、自分の本当の名前を呼んでくれた、その声だけは。




