第8話 安否
昭和二十年(一九四五年)三月十日 東京・両国
空が、赤く燃えていた。
地鳴りのような爆音とともに、B29の編隊が夜空を埋め尽くしている。降りそそぐ焼夷弾が屋根を突き破り、あちこちで火柱が噴きあがった。
「防空壕へ急げ!」
部屋の若い衆が叫びながら走っていく。けれど信格は、その流れに背を向けて、炎の中へ駆けだしていた。
朝鮮人街の方角だった。
逃げまどう人々の悲鳴が、熱風の中で渦を巻いていた。目の前で電柱が火の粉を散らして倒れ、隅田川のほうからは、水を求めて飛びこんだ人々の、言葉にならない叫びが聞こえてくる。
焼け落ちた家と家とのあいだに、人ひとりがやっと通れるほどの路地があった。その先から、逃げてくる人の群れが押し寄せてきた。
先頭にいたのは、赤ん坊を抱えた若い女だった。背中の綿入れに火の粉が燃え移り、髪がちりちりと焦げている。女は、信格の巨体を見上げて、すがるように手を伸ばした。
「助けて……この子だけでも……」
信格は、止まらなかった。
丸太のような腕で、女の肩を払いのけた。女の体は呆気なく弾き飛ばされ、燃える板塀に叩きつけられた。赤ん坊の泣き声が、一瞬だけ高く響いた。
信格は、それを踏み越えるようにして、路地を抜けた。振り返りもしなかった。
あの女と赤ん坊がどうなったのか。信格は、その夜から死ぬまで、一度も考えたことがなかった。
見慣れた路地にたどり着いたとき、そこにはもう、何もなかった。
トタン屋根は焼け落ち、柱は炭になって崩れ、看板の文字も読めなくなっていた。
「オモニ!」
叫んだ声は、炎の唸りにかき消された。
「オモニ! どこだ、オモニ!」
返事は、なかった。
焼け跡の中に、ひびの入った黒い土鍋が一つ、転がっていた。あの雨の夜、熱いクッパを注いでくれた土鍋だった。
信格はそれを両手で拾いあげ、膝から崩れ落ちた。
焼けた土鍋の熱が、掌の古傷を、じりじりと焼いた。それでも、信格は、その手を離すことができなかった。
昭和二十年(一九四五年)六月 両国国技館
国技館の大鉄傘は、三月の空襲で焼け焦げ、天井のあちこちに穴が開いていた。そこから差しこむ初夏の光が、土俵の上に、まだらな影を落としている。
客席にいるのは、白い病衣を着た傷痍軍人たちだけだった。
片腕のない者。両脚を失い、戸板に乗せられて運ばれてきた者。包帯で顔の半分を覆った者。誰も声を上げず、ただ黙って、土俵を見下ろしていた。
客を入れずに開かれた、慰問のための本場所だった。
「……あれが、朝鮮人の関取か」
客席のどこかで、低い声が漏れた。
信格の体は、思うように動かなかった。
配給の雑炊だけでは、関取の巨体はもたない。立ち合いで当たっても、踏ん張りが利かない。土俵際で残そうとしても、足が言うことを聞かない。黒星が、一つ、また一つと並んでいき、やがて、負け越しが決まった。
土俵を下りるとき、客席の端にいた片脚の若い兵士と、目が合った。
その顔が、ふと、白鷺山に見えた。
信格は目を逸らし、逃げるように花道を下がっていった。
支度部屋の隅で、信格は、頭からタオルをかぶって座りこんでいた。
「お前、力王山だろ」
顔を上げると、一人の力士が立っていた。
大きな体に、穏やかな目をしている。今場所、新小結に上がったばかりの、桜富士欣吾だった。部屋も違うし、番付も、はるか上だ。言葉を交わしたことなど、一度もなかった。
「負け越したからって、腐るんじゃねえぞ」
桜富士は、まっすぐに信格の目を見て言った。
「十両に上がってきた時から、ずっと見てた。お前の相撲は、本物だ」
それだけ言うと、桜富士は、からりと笑って背を向けた。
信格は、何も言えなかった。
本物。
頭からかぶったタオルの下で、信格は、その言葉を何度も噛みしめた。嬉しいのか、苦しいのか、自分でもわからなかった。ただ、初めて日本人から向けられたまっすぐな言葉が、焼けた土鍋のように熱く、喉の奥に引っかかっていた。
それから、わずか二か月後。
昭和二十年八月十五日、戦争は、終わった。




