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第9話 雑炊

 昭和二十年(一九四五年)十一月 東京・両国国技館


国技館の大鉄傘には、空襲で開いた巨大な穴が、そのまま残っていた。


見上げれば、晩秋の青空が覗いている。冷たい風が吹きこみ、土俵の砂を巻きあげた。


客席の最前列には、カーキ色の軍服を着た大男たちが、足を組んで座っていた。ガムを噛み、指笛を鳴らし、まわし姿の力士を指さしては、げらげらと笑っている。進駐軍の兵隊たちだった。


土俵は、一回り大きくなっていた。


「アメさんが、広いほうが見栄えがするんだとよ」


支度部屋で、誰かが吐き捨てるように言った。


「冗談じゃねえ。こちとら腹が減って、立ってるのもやっとだってのに」


長いあいだ守られてきた国技の土俵の大きさが、勝った国の一言で、一夜にして変わる。誰も逆らわなかった。逆らえなかった。


信格は、黙って、新しい土俵の俵を見つめていた。


世の中の決まりごとを書いているのは、神様でも、協会でも、親方でもない。一番強い奴だ。


この場所、力王山は、十両の土俵で、勝ち星を重ねていた。


立ち合い、痩せ細った相手を、一撃で突き飛ばす。相手の体は、広くなった土俵を転がり、俵の外へ消えていった。


客席の米兵たちが、口笛を吹いて喝采した。


「Hey, big boy! Good job!」


誰かが、銀紙に包まれたチョコレートを、土俵へ放り投げた。


信格は、それを拾わなかった。足元に転がった銀紙を、ゆっくりと踏み潰しただけだった。


米兵たちの笑い声が、穴の開いた天井へ吸いこまれていった。


同じ夜 東京・上野 闇市


その夜、信格は付け人を一人連れて、上野の闇市を歩いていた。


焼け跡に、葦簀張りの屋台がひしめいていた。芋を蒸す湯気、得体の知れない肉を煮る匂い、復員兵の汚れた軍服、裸足の子供たち。敗けた国の人間たちが、うつむいて食い物を漁っている。その中で、肩で風を切って歩く一団がいた。朝鮮人の闇屋たちだった。


昨日まで犬と呼ばれていた者たちが、今日は、焼け跡の王だった。


信格は、一軒の屋台の前で足を止めた。鍋の中で、雑炊が煮えていた。


「おい。それを、よこせ」


屋台の親父が、顔を上げた。痩せこけたその頬に、見覚えがあった。


三所の山部屋を、四年前に廃業した兄弟子だった。あの雨の夜、大部屋で花札に興じながら、部屋が臭くなるから廊下で寝ろ、と笑った男の一人だった。


兄弟子の顔から、血の気が引いていった。


「り、力王……関……」


信格は、何も言わずに、鍋ごと持ちあげた。


「ま、待ってくれ。それを売らなきゃ、明日、子供に食わせるもんが……」


すがりついてきた兄弟子の首に、信格は、掌を叩きこんだ。


上から、斜め下へ。首の横。柱で何千回と打ちこんできた、あの角度だった。


兄弟子は、声もなく泥の中に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。周りの屋台の者たちが、一斉に目を逸らした。誰も、何も言わなかった。


次の屋台には、白髪の朝鮮人の老人がいた。信格は、そこに並んでいた米の袋も、黙って付け人に担がせた。


老人が、朝鮮の言葉で叫んだ。


〈待て! 同じ朝鮮の者じゃないか。同胞から奪うのか〉


信格は、振り返りもせずに、日本語で答えた。


「人違いだ。俺は、長崎の対馬光夫だ」


同じ夜更け 三所の山部屋


部屋に戻ると、信格は、奪ってきた雑炊を鍋ごと抱えこみ、一人で啜った。


付け人の若い衆が、腹を鳴らしながら、その横に正座している。信格は、最後の一滴まで啜り終えると、空になった鍋を、付け人の前に放り出した。


鍋の底に、焦げついた米粒と、得体の知れない滓がこびりついていた。


「食え」


付け人は、震える手で鍋を抱え、底の滓を指でこそげ取っては、口に運んだ。


その姿を、信格は、黙って見下ろしていた。


かつて、空っぽのちゃんこ鍋の底を見つめていた、自分の姿だった。


ふっ、と、信格は笑った。


今度の笑いは、少しも乾いていなかった。



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