第10話 再会
昭和二十二年(一九四七年)六月 東京・明治神宮外苑
梅雨の晴れ間の、蒸し暑い午後だった。
国技館を米軍に取りあげられた大相撲は、神宮外苑の野天の土俵で、本場所を開いていた。葦簀で囲っただけの粗末な会場に、それでも客は押し寄せた。食い物にも娯楽にも飢えた人々が、汗まみれになって、土俵を見下ろしている。
打ち出しの太鼓が鳴り、力士たちが会場をあとにしていく。
付け人に浴衣を羽織らせ、力王山が通用口を出たときだった。
「シンラック!」
人垣の向こうから、女の声が飛んだ。
朝鮮の名前だった。人前で、その名前を呼ばれたのだった。周りの客たちが、怪訝な顔で振り返った。
人をかき分けて、一人の女が飛び出してきた。継ぎの当たったもんぺに、日に焼けて痩せこけた頬。けれど、その目だけは、新京の駅のホームで見たときのままだった。
秀貞だった。
〈シンラック……やっと、見つけた〉
女は、握りしめていた一枚の紙切れを差し出した。汗と泥で文字の滲んだ、オモニの店の場所を書きつけた、あの紙だった。
〈あの店に行ったら、焼け跡しかなくて……新聞に、あんたの名前が……〉
信格の背中を、冷たい汗が伝い落ちていった。
周りには、付け人がいる。贔屓筋がいる。番付を手にした新聞記者もいる。長崎の対馬光夫という仮面が、この女の一言で、いまにも剥がれかけていた。
信格は、女を見下ろした。
「知らねえな」
秀貞の顔が、凍りついた。
「おい、なんだこの女は。どこの朝鮮女か知らねえが、関取に気安く寄ってくるんじゃねえ」
付け人の若い衆が、慌てて秀貞の肩を突き飛ばした。秀貞は泥の地面に膝をつき、その手から離れた紙切れが、人々の足元に踏みにじられていった。
信格は、一度も振り返らなかった。
三年前、国技館の廊下で永哲の横を通り過ぎたときと、同じ歩き方だった。
同じ夜 東京・新宿 裏通りの安宿
その夜、信格は、付け人の一人をこっそり呼びつけた。
「昼間の女を、探してこい。誰にも見られるな」
夜更けになって付け人が連れてきた秀貞を、信格は、人目のない裏通りの安宿に押しこんだ。裸電球が一つ揺れるだけの、黴臭い四畳半だった。
秀貞は、部屋の隅に座りこんだまま、信格の顔を見ようとしなかった。
〈……昼間は、悪かった〉
信格は言った。詫びのつもりだった。けれど、その声には、詫びる響きなど、どこにもなかった。
〈あそこでお前に名前を呼ばれたら、俺は終わりなんだ。わかるだろう〉
〈……わかってる〉
秀貞は、膝の上で手を握りしめた。
〈あんたに会うために、海を渡ってきた。村から三十八度線を歩いて越えて、釜山から密航船に乗って。焼け跡を探して、新聞を探して〉
それから、ようやく顔を上げた。
〈言わなきゃいけないことがあるの〉
〈なんだ〉
〈あんたの子が、いる〉
裸電球が、じじっ、と音を立てた。
〈女の子。二つになる。故郷の村で、あたしのオモニに預けてきた〉
信格は、長いあいだ黙っていた。それから、乾いた声で言った。
〈……本当に、俺の子か〉
秀貞の目が、大きく見開かれた。
〈あの店には、毎晩いろんな男が来てたんだろう。日本の兵隊も、俺の兄弟子たちも〉
秀貞は、何も言わなかった。ただ、その頬を、音もなく涙が伝い落ちていった。
信格は立ちあがり、背を向けた。
「明日から、ここに住め。金は、付け人に届けさせる。俺がいいと言うまで、外を出歩くな。誰にも、俺の名前を言うな」
扉に手をかけて、信格は一度だけ足を止めた。それから、懐から分厚い札束を取り出し、振り返らないまま、畳の上に放り投げた。
〈……村に、送ってやれ〉
それだけ言うと、信格は部屋を出ていった。
秀貞は、畳の上に散らばった札を、しばらく見つめていた。それから、一枚ずつ拾い集めて、胸に押し当てた。
面倒を見る、と、あの男は言った。
これが、その答えだった。




