第11話 殊勲
昭和二十二年(一九四七年)秋 東京・浅草
神宮外苑の六月場所で、力王山は、幕内で初めて負け越した。
新入幕から勝ち越しを続けてきた男の、不可解な失速だった。千秋楽の夜、親方の部屋の障子の向こうに、また見覚えのある羽織姿の影が座っていたことを、信格は知っている。
けれど、何も言わなかった。言えば、すべてを失うからだ。
その鬱屈を、浅草の縄暖簾の奥で、一人で酒に流しこんでいた夜のことだった。
「よう。一人で飲んでるのか」
顔を上げると、桜富士が立っていた。
二年前、焼け焦げた国技館の支度部屋で、お前の相撲は本物だ、と言い残していった男だった。いまは大関に上がり、新聞が次の横綱と書きたてている。
桜富士は、断りもなく信格の隣に腰を下ろした。
「親父、こっちにも一本」
「……大関が、こんな店で飲んでいいんですか」
「俺は、浅草の生まれだ。ここらの店は、ガキの頃から知ってる」
からからと笑って、桜富士は信格の猪口に酒を注いだ。両手で、丁寧に。
しばらく、二人は黙って飲んだ。やがて、桜富士がぽつりと言った。
「お前、朝鮮の出だろ」
信格の手が、止まった。
「……誰に聞いたんです」
「誰にも。相撲取りは、当たればわかる。お前の相撲には、背負ってるもんの重さが乗ってる」
桜富士は、猪口を空けた。
「どこの生まれだろうが、土俵の上じゃ関係ねえ。強い奴が強い。それだけだ」
信格は、何も答えられなかった。
この国に来て、七年になる。そんな言葉を日本人の口から聞いたのは、初めてだった。
「それと、その堅苦しい口のきき方は、よせ。欣吾でいい」
「……じゃあ」
信格は、少し考えてから言った。
「欣ちゃん、で」
桜富士は一瞬きょとんとして、それから、腹を抱えて笑った。
「大関を、ちゃん付けか。いいな、それ。お前だけだぞ、そう呼んでいいのは」
その夜、信格は、久しぶりに酒をうまいと思った。
それから二人は、場所が終わるたびに、浅草の路地で飲むようになった。
桜富士の前でだけ、信格は人を殴らなかった。付け人に鍋の底を食わせることも、闇市で凄むこともなかった。秀貞を安宿に閉じこめていることも、一言も口にしなかった。大関の隣に座っていると、自分まで、少しだけまっとうな人間になれたような気がした。
そして、そう感じるたびに、胸の奥で、何かがじくじくと疼いた。
こいつは、生まれたときから持っている。日本人の名前も、まっすぐな心根も、誰からも慕われる品格も。俺が死ぬほど欲しくて、一生手に入らないものを、全部。
昭和二十三年(一九四八年)五月 東京・両国
この場所、桜富士は、初日から勝ちつづけていた。
優勝すれば、横綱が見えてくる。新聞も、客も、協会も、誰もがそれを期待していた。
十日目、結びの一番の前の取組で、新小結の力王山と、大関桜富士とが、顔を合わせた。
仕切りのあいだ、桜富士は一度も目を逸らさなかった。いつもの、穏やかな目だった。手加減など、微塵も考えていない目だった。
信格は、ぞくりとした。
この男だけだ。憎しみも、蔑みもなく、ただ相撲取りとして、まっすぐに向かってくるのは。
軍配が、返った。
信格は、立ち合いから猛然と突っ張った。顔を、胸を、喉を、何発も何発も突きあげる。桜富士は、顔を紅潮させながらもそれを受け止め、じりじりと前に出てきた。
重かった。押しても、押しても、山が迫ってくるようだった。
まわしを、取られた。一気に寄られて、俵に踵がかかる。客席から、悲鳴のような歓声が上がった。
そこで、信格は、腰を落とした。
桜富士の巨体を、腹の上に乗せるように吊りあげる。俵の上で体をひねり、右から、全身の力をこめて振り回した。
うっちゃりだった。
二人の体が、もつれあって土俵の外へ落ちた。軍配は、力王山に上がった。館内が、割れんばかりの拍手に包まれた。
勝ち名乗りを受けて花道を下がると、後ろから、大きな手が肩を叩いた。
振り返ると、砂まみれの桜富士が、息を切らしながら笑っていた。
「強えな、力王」
それだけ言って、桜富士は、自分の支度部屋へ戻っていった。
信格は、花道の暗がりに立ちつくしていた。
強えな。
日本人の口から、自分に向けられた言葉だった。その一言を、信格は、死ぬまで忘れなかった。
桜富士は、その場所、残りをすべて勝って優勝した。土をつけたのは、力王山ただ一人だった。
千秋楽の夜、新聞は一面で桜富士の優勝を祝い、次期横綱確実、と書きたてた。力王山の殊勲賞は、紙面の隅に、小さく載っているだけだった。
勝ったのは、俺だ。
信格は、その新聞を、くしゃりと握り潰した。
ふっ、と、信格は笑った。その笑い声は、ひどく苦かった。




