第12話 横綱
昭和二十三年(一九四八年)十月 東京・明治神宮
秋晴れの明治神宮に、柏手の音が響いた。
真新しい純白の綱を締めた桜富士が、雲竜型の土俵入りを奉納している。せりあがるたびに、境内を埋め尽くした群衆から、どよめきと拍手とが湧きあがった。
第四十代、横綱。
焼け跡から立ちあがろうとする国が、ようやく手に入れた、新しい日本の象徴だった。
信格は、人垣の一番後ろから、その姿を見つめていた。
欣ちゃん、と呼べる男。自分が、うっちゃりで土俵の外へ投げ飛ばした男。その男の腰に、いま、白い綱が締められている。
拍手をしようとして、信格の手は、どうしても動かなかった。
同じ頃 相撲協会の奥座敷
協会の奥座敷に、三所の山親方は呼び出されていた。
床の間を背にして、協会の幹部が三人、並んで座っている。
「三所の山さん。お宅の力王山のことだが」
一番年嵩の幹部が、湯呑みを置いて口を開いた。
「強いのは、よくわかっとる。桜富士に土をつけたのも、あれだけだ。客も入る」
「恐れ入ります」
「だがな」
幹部の声が、低くなった。
「噂が、多すぎる。上野の闇市で人を半殺しにしただの、朝鮮の女を囲っとるだの。酒場で暴れて、店を一軒潰したという話も聞いた」
親方は、黙って頭を下げた。
「それに、何より、あれの生まれだ」
隣の幹部が、言葉を継いだ。
「国技館は、いまだに進駐軍に取られたままだ。協会は、日本の相撲が日本人の誇りだと、あちらさんにも世間にも示さにゃならん時だ。そんな時に、大関、ましてや横綱の土俵入りを、朝鮮の男にやらせられるかね」
親方は、何も答えなかった。
「関脇までは、上げてもいい。客寄せにはなる。だが、その上はない」
年嵩の幹部が、親方の目を、まっすぐに見た。
「これは、わしらだけの考えじゃない。もっと上の方々の、ご意向でもある。わかるな、三所の山さん」
親方は、黙って、畳の目を見つめていた。
すると、三人目の幹部が、懐から袱紗の包みを取り出し、親方の前に、そっと滑らせた。
「三所の山さんとこも、何かと物入りだろう。この食うや食わずのご時世に、若いもんを食わせていかにゃならん。次の巡業の割り当ても、いい土地を回そう。贔屓筋も、何人か紹介する。これは、その手付けだ」
袱紗の膨らみは、厚かった。
親方は、しばらく、それを見下ろしていた。若い衆たちの痩せこけた顔が、目に浮かんだ。芋の蔓しか浮いていない、ちゃんこ鍋の薄い湯気が、目に浮かんだ。
やがて親方は、ゆっくりと手を伸ばし、袱紗を懐にしまった。それから、畳に額をこすりつけるようにして、深く頭を下げた。
「……承知、いたしました」
その夜 三所の山部屋
「親方。俺は、桜富士関に勝ちました。次は……俺の番じゃないんですか」
親方は、しばらく黙って、煙管をふかしていた。
「……光夫」
親方は、信格を、書類の上の名前で呼んだ。
「俺の力じゃ、協会は動かせねえ」
信格は、膝の上で拳を握りしめた。言い返す言葉は、喉元までせりあがっていた。けれど、それを口にすることは許されなかった。
「お前がどれだけ勝とうが、同じだ。朝鮮人の横綱は、無理なんだよ。この国じゃな」
「……はい」
絞り出した返事は、自分の声とは思えないほど、低く掠れていた。
握りしめた拳の中で、柱を打ちつづけてできた古傷が、ぱっくりと口を開けていた。
部屋に戻ると、付け人の若い衆が、酒の燗をつけて待っていた。
「関取、お疲れさまでした。どうぞ」
差し出された徳利を受け取ろうとしたとき、若い衆の手が震え、熱い酒が、信格の膝にこぼれた。
「す、すみません!」
次の瞬間、若い衆の体は、部屋の端まで吹き飛んでいた。
信格は立ちあがり、畳の上でうずくまる若い衆の胸倉を掴んで、引きずり起こした。拳が、一発、二発、三発と、顔の骨に当たる鈍い音を立てた。廊下にいたほかの若い衆たちは、凍りついたまま、誰一人止めに入らなかった。
若い衆の顎が、おかしな方向に曲がったところで、信格は、ようやく手を離した。
肩で荒い息をつきながら、血に濡れた自分の拳を見下ろした。
わかっていた。殴りたかったのは、こいつではない。親方でも、協会の年寄りどもでもない。もっと上の、顔の見えない、何かだった。
けれど、その何かには、拳が届かない。だから、届くところにいる者を殴った。それだけのことだった。
「……くそ」
信格は、拳の血を、浴衣の袖で乱暴に拭った。畳の上でうめいている若い衆には、もう目もくれなかった。廊下で立ちすくむ付け人たちに向かって、顎をしゃくった。
「おい。飲みに行くぞ」




