第13話 匕首
昭和二十三年(一九四八年)十月 東京・新橋
焼け跡に建ち並んだバラックの飲み屋街は、闇の酒と、安い女の白粉の匂いで溢れていた。
信格は付け人たちを引き連れ、一番奥のカストリ屋に陣取った。
一升瓶を空け、二本目を空け、三本目に手を伸ばす頃には、店の中で口をきく者は、誰もいなくなっていた。客は一人、また一人と勘定を置いて、逃げるように出ていく。付け人たちは、関取の機嫌を損ねないよう、ただ黙って酌を続けていた。カウンターの向こうで、店の親父が、青い顔をしている。
そのときだった。
暖簾をくぐって、派手な柄のシャツを着た三人組が入ってきた。肩で風を切り、狭い通路を我が物顔で歩いてくる。先頭の若い男の靴が、通路に投げ出されていた信格の足を、思いきり踏みつけた。
男は、振り返りもしなかった。
「おい」
信格の低い声が、店の空気を凍らせた。
「人の足を踏んで、挨拶もなしか」
若い男が、ゆっくりと振り返った。
「ああ? なんだ、相撲取りか。そんなでけえ足、通り道に放り出してるほうが悪いんだろうが」
信格は、無言で立ちあがった。
天井に頭がつきそうな巨体が、三人組を見下ろした。若い男の顔が、一瞬だけ引きつった。
次の瞬間、信格の掌が、男の首筋に叩きこまれていた。男の体は、カウンターをなぎ倒して床に転がった。
「てめえ!」
残りの二人が、飛びかかってきた。信格は、一人の胸倉を掴んで壁に叩きつけ、もう一人の顎を拳で撃ち抜いた。酒瓶が割れ、椅子が砕け、店の親父の悲鳴が上がった。
床に倒れていた若い男が、這いずりながら、懐に手を入れた。
抜き出されたのは、鈍く光る匕首だった。
「……ぶっ殺してやる」
男は、血の混じった唾を吐きながら立ちあがった。刃先が、まっすぐに、信格の腹を向いていた。壁際で、付け人たちが息を呑んだ。
けれど、信格は動かなかった。刃先を見下ろし、それから男の顔を見下ろして、鼻で笑った。
「刺せるのか」
信格は、一歩、前に出た。刃先が、浴衣の腹に触れそうなほど近づいた。
「お前に」
男の手が、小刻みに震えていた。目が泳ぎ、額に脂汗が浮いている。
こういう手合いを、信格は、闇市で何人も見てきた。刃物を見せて凄むのが精一杯で、本当に人の腹に突き立てる度胸などない、根性なしのチンピラだ。
「ほら。やってみろよ」
信格は、両腕をだらりと下げて、腹を突き出してみせた。
男の顔が、怒りと屈辱とで、みるみる赤黒く染まっていった。匕首を握る指に、ぐっと力がこもった。
「そこまでにしときな」
暖簾の向こうから、落ち着いた声が響いた。
入ってきたのは、着流し姿の大男だった。桜富士だった。騒ぎを聞きつけた誰かが、近くの店で飲んでいた横綱を、呼んできたのだ。
桜富士は、匕首を握る男と信格とのあいだに、ためらいもなく体を割りこませた。刃先が、横綱の着物の胸元に触れそうなほど近かった。
「兄さん、刃物は、しまってくれねえか」
桜富士は、男の目をまっすぐに見て言った。
「こいつは、俺の連れだ。酒に呑まれて、手が出ちまった。悪いのは、こっちだ。この通りだ」
横綱が、町のチンピラに向かって、深々と頭を下げた。
男は、目の前の顔が誰なのかに、ようやく気づいたようだった。新聞の一面を飾った、あの横綱だった。
「……よ、横綱に頭を下げられちゃ、しょうがねえ」
男は、匕首を懐にしまい、仲間を引きずるようにして店を出ていった。
桜富士は、懐から財布を取り出し、店の親父に、壊れた物の代金を払った。それから、ようやく信格のほうを振り返った。
「帰るぞ、力王」
夜の路地を、二人は黙って歩いた。
しばらくして、桜富士が口を開いた。
「さっきの奴、本気だったぞ」
「ふっ。あんなチンピラに、人を刺す根性なんか、ありゃしねえよ」
「根性のねえ奴ほど、追い詰められたら、何をするかわからねえ」
桜富士は、立ち止まって振り返った。
「お前が勝ったのに、綱を締めたのは俺だ。悔しいのは、わかる。それがどういう理由か、俺にも、薄々はわかってる。だがな、力王。それで酒に呑まれて、チンピラに刺されて死んだら、お前を笑ってる連中の思う壺だぞ」
その顔には、怒りも、軽蔑もなかった。ただ、心から自分を案じている顔だった。
それが、何よりも耐えがたかった。
「……余計なことを、しやがって」
信格は、絞り出すように言った。
「俺は、ガキじゃねえ。欣ちゃんに頭を下げてもらう筋合いなんか、ねえんだよ」
桜富士は、少しのあいだ、黙って信格を見ていた。それから、困ったように笑って、また背を向けて歩きだした。
信格は、その背中を睨みつけたまま、動けなかった。
綱を締めた男に、町のチンピラ相手に頭を下げさせた。自分は、何一つ怖くなどなかったのに。その屈辱が、胸の底で、どす黒く煮えたぎっていた。
昭和二十三年(一九四八年)十二月二十四日 東京・巣鴨
粉雪の舞う朝だった。
巣鴨プリズンの重い鉄の門が、軋んだ音を立てて開いた。中から、三人の男が歩み出てきた。
痩せてはいるが、眼光だけは少しも衰えていない、小柄な男。仕立てのいい外套の襟を立てた、細面の男。帽子を目深にかぶり、口元に薄い笑みを浮かべた男。
大河原。岸本。佐々川。
戦犯の容疑をかけられ、三年あまりを獄中で過ごした男たちだった。
門の外には、黒塗りの車が一台、エンジンをかけたまま待っていた。
「……シャバの空気は、冷てえな」
大河原が、白い息を吐いた。
「冷てえうちが、仕事のしどきさ」
岸本が、手袋をはめながら答えた。
「アメリカさんは、もう俺たちを吊るす気はない。赤と戦うための駒が要るんだとさ」
佐々川が、くつくつと笑った。
「駒、か。上等じゃねえか。せいぜい、高く売りつけてやろう」
三人を乗せた車は、雪の中を走り去っていった。
この国の、新しい台本を書くために。




